鹿島美術研究 年報第9号
217/428

—, このような条件を持つものを詩画軸と見倣すとすれば,それは朝鮮画においても求めることができる。現にそういった朝鮮画の遺作はあまり伝わらないが,文献上の記述を見渡す限り,確かに詩軸および詩画軋ll的な存在あるいはそれの制作状況を確かめることができる。特に李朝では,絵圃とは個人あるいは小数集団のためのものでなく,公のものとしての性格があった。絵画の享受者か王候賞族にしろあるいは一般民衆にしろ,画を見るためには付随の説明か不可避のものであり,この両者が常に並存していたのである。このような圃と賛詩との関わり合いについてはすでに高麗時代からその密接なるものがあった。高麗時代の文人達の文集には多く画図に対する題詩か載せられており,内容的に室町期を通して見られる詩圃庫庸の題詩と相通ずるものが少なくない。つまり詩画庫庸における室町一一盈i)龍という連結を示しているものとして注目すべきであろう。そのような文脈において応永17年(1410)の「芭蕉夜雨図」における梁需の追賛の役割は両国聞における共同の詩画庫lll{|iIl作の活動の産物として認められるであろう。そして室町という日本と中国とのつなかり以上に朝鮮半島との絵画制作上の連結を認めるべきではなかろうか。5. 日・朝における誨軋lIの変容と両者l-i_i]の按、I訊高即末期から李朝期にわたって帆鮮側には,「契会図」という絵圃形式が重要な圃題形式として多く制作されていた。契会図とは当時の文人達の集いの状況を記録し,伝米させるために制作されたものである。圃面の形式は,契会の名称を記した標題,その下に場面を描き,また参加者達の人的事柄を書き記すといったものになっている。私はここで次のような図式が立てられるのではないかと考える。つまり,室町では詩軸がそのまま詩l直ijli庸として流行していったのに対し,朝鮮の場合主にそれは契会図へと変容していったと見ている。詩圃軋l!…契会図室町朝鮮詩軸./ \、195-

元のページ  ../index.html#217

このブックを見る