ピサの帝墓は本米,新しき精神への願いのもと,人間の現実性と普遍性の高みとの統合を目ざした詩聖ダンテにより想い描かれ,ティーノという彫刻家のこれ又創造謡欲の極まりのもと生れた芸術史に於ける頂点的作品である。そこからの影特の輪は単に美術のみならず,歴史の様々の局面に広かり行くものがあった筈である。強い精神的広がりを持つモニュメントであればこそ,たとえ十五世紀末,本米の姿を失なうにしても,その記応は人々の内に生き,語りつがれ,ヨーロッパの一地下水脈を形成して行ったものと予見する。しかし十四,五世紀への影翠漿の考察のみにしても多くの対象を扱わねばならない為,この度の研究はその範囲内のものとし,十六←世紀以降への考察は今後の入念な検討課題とすることとした。尚,紙面の都合」こ,今報告で割合せざろう得なかった、1訊,特にフィレンツェ以外の状況をも含め,近く群馬大学紀要に於てより詳細に論じたく思っている。209
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