さや(エジフトリッター•トウルムもけいであるが,パリのモンソー公園と同じく随所にフリーメーソンの思想を象徴するモニュメントが配されており,ピラミッドもその一つなのである。この交通不便な田舎にあるピラミッドは,ドイツ人よりもむしろ日本人によく知られているかも知れない。というのは,森閏外がドイツ留学中にザクセン軍団の秋期演習に同行して最初に泊ったのがこのマッヘルンだったからである。(1885年8月27日)当時のこの庭園と城館の主はシュネトガーという人であったが,鵬外の「独逸日記」には,この日のシュネトガ一家での見聞が克明に記されている。その記述の中に「埃及尖塔の輩型あり」とあるのがピラミッドのことなのだが,このピラミッドは1嶋外が帰国後まもなく発表した小説「文づかひ」の中で重要なモチーフとして用いられたことによって日本人に忘れがたいものとなったのである。骨舷外研究家は旧東ドイツ時代にも苦労してこの地を訪れたらしいか,私は統一後の訪問であったからやすやすと行けた。一時は荒廃していたらしい庭園も城館も,現在は国の保護文化財として整備されている。鴫外が訪れた時すでに庭園も城館も築後100年を経過しており,所有者も19世紀初頭から商人出身のシュネトガ一家に変っていた。従って,当初のフリーメーリンのモニュメントの象徴的意味はもう見失われていたかも知れない。鴫外はピラミッドの他に「又一塔あり。甚だ高し。スネットゲル氏鎖鍮を開き,客を消きて登る。四顧平野。」と書いているが,これはピラミッドから少し離れて庭園の一番はずれにある騎士の塔のことである。四層からなるこの塔は最初から最上階か廃墟とみえるように設計され,10m位離れたところにある小亭内の入口から地下道をくぐって塔に達する設計であったが,鶴外は地下道からではなく,直接塔の中に入って登ったような書き方をしている。200年後の現在は入口の小亭はあるものの地下道はふさがれ,塔内の階段も落ちてしまったということで登れない。ピラミッドについて日記はあるとしか記してないが,「文づかひ」中の記述では,このピラミッドの庭園の中心に向いた一面に階段が刻んであって,頂上に登れるようになっており,頂上は平らで周囲に鉄製の欄干がめぐらしてあり,中央に大きな切石があることになっている。そして楓鳥外その人を思わせる主人公の小林士官が城の姫イイダに案内されてその頂上に登り,切石に腰かけて会話を交わし,姫に秘密の手紙を託される,という場面がこの小説の中核になっている。熱心な鵡外研究者がこの地を訪れ,撮影してきた数点の写真と解説を読んだ限りでは,小説中のように階段はついておらず,そのかわり玄関があって中に入れるようになっており,内部は墓室であるように思われるので,階段はとり払われてしまったのか,それとも楓鳥外214-
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