鹿島美術研究 年報第9号
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杜,1992年,45ページ参照)。しかしながら真摯なカトリック者である平田教授はこの空間ではまことには祈れないといわれる。その垂れ下がる曲面天井に農家の空間を思われる,いや,イエス誕生のうまやを直視されるが,祈りの空間ではないといわれる。私たちが訪ねたときは残念ながら雨天であった。その故に(神の)光の空間が直観されなかったのかもしれない。それにしても平田教授は明るきに過ぎるといわれる。(物理的に)明るい空間には人が集まることはできるが,そこでは一人で祈ることはできないといわれる。ましてや,ざんげはできないといわれる。祈ってキリストと合ーすることはできないといわれる。シャルトルこそが祈りの空間である。危機に直面した人びとはシャルトルかロンシャンか,どちらで祈るだろうかと問われる。その意味では,前川がゴシックの最高の古典作品と讃美しているランス大聖堂もステンドグラスをすべてとり戻したとき,至高の聖なる空間を現出するであろう。しかしながらシャルトルもランスも現代建築ではない。それでは現代においてわれわれはいかなる祈りの空間を創作することができるのか。ル・コルビュジェは芸術作品としての傑作を制作したけれど,まことの祈りの空間を創出することができなかったのか。重大な問いである。私はこれまで〈聖〉ということをルドルフ・オットーとパウル・ティリッヒらのdas彼らに批判的に,さらにdivineという概念の重要性を強調される。先生はオットーのであって,オットーはモーラルな意味をとり去った絶対的な聖を表すのにdasnuminose なる概念を提起したのである。カトリック的立場から稲垣先生は,〈聖なる〉という概念を道徳的にニュートラライズすることはセキュラライズすることになるとしてオットーを批判され,聖に対しては根本的にモーラルな態度を保持しなければならないと強調される。これは宗教者である神学者と宗教学者との宗教観の相違に起因すると即断することのできない相異ではあるが,そこには聖なる空間を考えることの基本問題が提起されているであろう。聖トマス・アクィナスは聖なる考えとしての神学のサプジェクトマター(主題)はnuminりseという概念によって了解し,<聖〉に関する二つの概念をいくらか便宜的にholyとsacredという二つの語の区別によって解釈してきた。これに対して稲垣教授はdas heiligeの概念にはモーラルな意味か欠如しているといわれる。まことにその通り2)〈聖〉ということ3)神とキリスト-218-

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