4)パノフス共ーとスコラもちろん神であるというが,く神とキリスト〉の問題は難解である。平田先生はキリスト者として,キリストならある程度わかるか,神はとうていわからない,といわれる。それに対し稲垣先生はキリストの出現によってく人としての神〉であるとか(一体の神〉であるとか,神かまことに難解になった,といわれる。しかし稲垣先生のようなカトリック的智者は直接く神〉を問いうるであろうか,私たち通俗人はく聖なる〉現象を通してしか〈神〉を問いえないのではなかろうか。キリストの出現によって神かわれわれの身近かな存在,〈デウス・プロピンクィオル〉になったことは確かであろう。そして,芸術や建築の成立する』基礎も,直接は知党しえない神そのものではなく,眼で見ることのできるような具体的な姿を抽くことのできるキリストそのひとにあろう。そしてかつて前川かholyとsacredをわけて,sacredspaceを論じることのできたのも,このことと共通する基盤にあってのことであろう。パノフスキーは『ゴシック建築とスコラ学』において13抵紀に頂、1ばに達するゴシック建築とスコラ学の両者の類縁的特質をマニフェスタチオとコンコルダンチアに認めている。前川は以前から前者については理解できるものの,後者の考えには必ずしも同滋していない。ところで稲Jl]教授はトマス・アクィナスに代表されるようなスコラ学か当代のメンタル・ハビットであったとする考えに否定的である。なによりも,トマスが当時の宗教界に必ずしも受容されておらず,むしろ一種の異端者として弾劾さえされていることからみても,トマスの神学がこの時代のメンタル・ハビットとして確立していたとはとうてい考えられないといわれる。しかもトマスの『神学大全』そのものが実は未完成の大著であって完成したシステムではない。ゴシック建築も未完成の作品であり,前川のいう〈生成(ヴェルデン)の建築〉であるという瓶味では共通性をもつかもしれないか,決してパノフスキーの論じるような体系化を実現したものではない,といわれる。当時トマスは神学者としてよりも,むしろデヴォーションの面で受け入れられていた,聖者として受け入れられていたのであり,パノフスキーのいうようなメンタル・ハビットとしてスコラ学をとり上げるのならば,トマスよりもむしろトマスの師であるアルベルトゥス・マグヌスや,あるいはポナヴェントゥーラに眼を向けるべきである,といわれる。もう一つ,パノフスキーのいうマスフェスタチオという概念も中世的ではないと思われる。しかし「メンタル・ハビット」というパノフスキーの概念は注日すべき考えであると評価される。しかしhabitは「習慣」-219
元のページ ../index.html#241