鹿島美術研究 年報第9号
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⑲ 光明寺障壁画の研究(1709)造営の内裏常御殿の障壁画が相当数含まれており,その筆者はいずれも江戸1 作品の現状現在,光明寺の宝物館には大小•新旧合わせて52枚83面に及ぶ多数の障壁圃が,種研究者:京都府京都文化博物館学芸員田島達也京都府長岡京市粟生の地にある光明寺は,建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷直実)によって創立され,法然を開山と仰ぐ,西山浄土宗総本山である。この光明寺にのこる多数の障壁圃は,同寺の伝承では御所から伝来したものとされているか,これまでその真偽は明らかではなかった。本研究ではこれらの障壁圃に対して詳しい調査を行った結果,この中には宝永6年時代中期の江戸狩野派の中心画人であることが明らかになった。御所関係の建物の障壁画であったという伝承を持つ障壁画は,京都を中心に少なからぬ例か見いだされるか,決定的な証拠を持つものは怠外に乏しい。今回明らかになった光明寺の作品は十分に史料的な裏付けがとれる買重な例である。類や順番に関係なく混沌とした状態で保存されている。これらは10年程前までは光明寺の大書院と釈迦堂で実際に使用されていたというが,そのころの正確な配慨を示す賽料は残っていない。ただし釈迦堂には今も4面だけ古い襖絵がはめられており,当時の様子を偲ばせている。これらのうちここで問姐とする江戸時代中期のものは,釈迦常の分も含めて55面である。作出\の現状は,55面中約半数に当たる27面は近年修理を受け,引き手を取り去ってパネル状に改装されている。残りの28面は古い襖の状態を残しており,従って非常に傷みが激しい。この違いは修理された27面がもと大書院のものであり,未修理の28面かもと釈迦堂のものであったことに対応する。圃面の状態はどちらも良好とは言い難く,補筆・補彩も少なからず見られるか,応図柄の判別が可能な程度には残っている。この55面を光明寺での元の所在や,材質・技法・サイズ・図柄などの、1ばから整理し,全体を大きく5つのグループに分け,便宜的にA■Eの名を与えた。グループA(紙本金地羞色・19面)は神杜の社殿を中心に人々の遊楽の様子が描かれ,一種の名所風俗を表したものだが,ここに描かれる特徴的な杜殿の周りでは船が-221

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