以上,光明寺の障壁画は数種類の異なる画題からなっていることがわかるが,制作年代的にはさほどの隔たりは感じられず,大半は同一時期の制作と考えられる。現在のいわゆる寺伝の元になっているのは明治44年発行の「光明寺沿革誌」である。ここでは6種類の障壁面について画題と筆者を記し,これか元は内裏の常御殿の障壁画であったことと,宝暦13年に大原家を通じて寄付されたものであることが明記されている。かなり具体的な記述だか,何分明治末の史料ゆえ,これだけで内裏障壁圃であった証拠とすることは難:しい。しかし幸いなことに,長岡京市によって行われた光明寺の文書調査によって「光明寺沿革誌」の元になった史料か新たに発見されていた。それが「金襖御寄付書」である。これは障壁圃が光明寺に寄進された際の,寄進:l犬兼目録に相当するものである。その内容は「光明寺沿革誌」とほとんど一致している。一方,内裏の造貨に関しては,光明寺にこの障墜圃かもたらされた18世紀には,火災による焼失とその再建か`,宝永6年(1709)と襄政元年(1789)の2回ある。金恢御寄付書に記された年は宝暦13年(1763)であるから光明寺が寄進を受けた可能性が高いのは宝永度造営分の障隈圃ということになる。宝永内裏の障壁面の史料としては「禁裏御絵闊井坪附1脹」というものか紹介されている。これは名圃人ごとに,担当した部屋とそこに描いた圃題をまとめたものである。この中に光明寺側の史料とはは正確に対応する記録が見いだされた。従って「金恢御寄付書」に記された障壁圃は,確かにこの宝永度造背の内裏常御殿のものであったと見てよい。常御殿の障壁画が下賜された事情としては,この前年の宝暦12年7月21日に桃園天皇が崩御したことが契機となったと推察される。死の械れを忌むため,清涼殿と常御殿で部分的な造替が行われた記録があるからである。「金襖御寄付書」に記された宝暦まさにその際下賜されたものだと考えてよいだろう。なお,グループC山水図の破れた箇所から発見された下張の反故紙は,宝暦9年の年記を持つ勧進状であり,内裏常御殿の障墜画か光明寺にもたらされた宝暦という時代と,現存する障壁画との結びつきを補強するものと思われる。各史料で名前の挙がっている筆者はいずれも雌府の御用絵師,狩野派の絵師である。2 伝来の経緯13年7月15日という日はこの造替直後に当っており,光明寺が寄進を受けた障壁圃は223-
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