4つある奥絵師のなかで後に最も栄えた木挽町狩野家の画家だが,宝永度の造営では約8割が記録上の作品と対応していることになる。(6) 扇子流1723)。今日ではほどんど取り上げられることがない画家だか宝水度造営では非常に大1718)と守定(1655-1714)で,それぞれ狩野探幽の長男の次男に当たる。兄の狩野-1731)で,この時まだ18歳であった。3 作品の照合と復元試案(1)と考えられる。従って記録に現れる画題のうち4つはそれと対応する作品が現厳島図と四季真山水図の狩野洞春は表絵師筆頭の駿河台狩野家の狩野福信(?きな働きを示している。龍田図の狩野如川は狩野常信の長男狩野周信(1660-1723)。この龍田図のほかにもう1部屋描いているに過ぎない。春日野行幸図に名前の上がっている狩野探信と狩野探雪はともに四奥絵師の1つ鍛冶橋狩野家の狩野守政(1653-探信は宝永度の造営では先の狩野洞春や,次に述べる狩野永叔と並んで中心的な活躍をしている。大井川逍遥三艘の狩野永真は中橋狩野家永叔主信の子,狩野憲信(1692上記の史料上,光明寺にもたらされたことがわかる障壁画は次の5種類である。(1) 春日野行幸(2) 大井川逍遥三艘(3) 四季真山水(4)龍田(5) 厳島これをさきに分類したグループと照合するとA=(5),B=(4), C=(3), D= 存していることになる。記録に見られる扇子流と言う作品は小襖であったらしいが,現在光明寺にはそれに該当しそうなものはない。また,大井川逍遥三艘は,あるいはグループEのなかにそれに相当するものが含まれているかもしれないが,明確なモチーフが認められない以上,不明とするほかない。さて,このグループEをひとまず除外してもなお光明寺に現存する障壁画は全体の「禁裏御絵割井坪附帳」には各部屋ごとに絵の坪数(障壁画の面精を示す)がされているので,これと現存する作品の面精とを比較すると,現在残っているおよその分量は,制作当初から見て厳島が8割,龍田が3割,四季真山水が4割,春日野-224-
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