行幸が1割強ということになる。この中では厳島の現存率が非常に高い。ではこれらは常御殿の中でどのような状態で配置されていたのか。宝永度造営内裏の指図のうち常御殿が表されているのは『中井家文書の研究5内匠寮図面編5』の中に5点紹介されている。このうち常御殿を独立して詳しく描いた「禁裏常御殿絵図」(同書図面番号413-3)をもとに「禁裏御絵割井坪附帳」と照らし合わせることで各作品の部屋の位置.と間取りか確定された。しかし当然のことながら現在の厳島図は光明寺の建築に合わせて改装されているので,現状の形ではこの図面には合わない。そこで修理の跡を示す襖の継ぎ目に注目して当初の襖の状態を復元していった結果,厳島図については多少の欠損はあるもののほとんどが当初の襖の枠に収まる姿に復元できた。この作品は厳島という単一の名所だけで一室を構成する珍しい例であるか,復元により,名所の主要部一神杜の本殿ーは無理に引き延ばさずに描き,残りは実際の屎観にはとらわれずやや緩慢に図様をつなげてゆくという構成を見ることかできる。今恒l研究対象としたのは従米美術史的にはあまり重きを岡かれて米なかった江戸中期の狩野派であるか,江戸城障壁圃の膨大な下絵の公閲以米,この分野に対する再評価の機連も見られる。特に今回紹介したような名所菜物を描いた障壁画は重要なテーマであり,探幽によって確立された様式の継承と変化が江戸狩野の11:1でどのように行われていったのか,そしてそれは江戸城の障壁圃とどのようにつながってゆくのか,今後光明寺障壁画を通して考えるべきことは多い。225-
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