鹿島美術研究 年報第9号
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ダウについて注目しなければならない点が,ここでは指摘されていると思われる。それは,彼がデザイン(design)として概念つけることになる日本美術における大胆な画面構成と事物を抽象化する装飾的な文様に対する着目か,アメリカにおける抽象表現の手法に大きな手掛かりを与えた点だろう。勿論,19世紀後半から20世紀初頭にかけてフランスから移入されるジャポニズムか,アメリカの芸術家たちに影特を与えたという同時代の麹勢も考慮に入れなければならないが,日本美術のエッセンスを美術教育として理論つけたという功績はやはり注目されなければならないだろう。ここでの研究の大きな柱となる点である。ところで現代美術におけるアメリカの位置が,今日のごとく不動のものとなるのはナチのホロコーストの難を逃れてく多くのヨーロッパの芸術家がアメリカに移住し,彼らか戦後のアメリカ美術の飛躍に一役買ったことは,よく知られているとのことである。しかしながら,一方で19iリ:紀から連綿とあるアメリカ本米の美術の流れもまた戦後,あるいは現代にいたるまで底流を支配していることも指摘されなければならないだろう。ここでは,抽象表現主義以前の20-世紀初頭のアメリカ美術の側面を教育者であり圃家であるダウを辿して浮き彫りにし,ひいてはダウが抽象表現主義以降のアメリカ芙術においていかにげることができる。また,ダウか,アメリカン・ジャポニズムの中心的人物であり,とりわけ美術教育者としてその美術の教育理念の柱に日本美術のエッセンスを取り込んでいることから,19-世紀後半から20i仕紀初頭にかけての日本とアメリカの美術交流についても明らかにする第2の日的もあげておく必要があるだろう。またダウ研究は,ダウがアーネスト・フェノロサと出会う以前と以後を大きな分かれ目として認識しておくことから始めなければならないだろう。というのも,ダウが日本の美術にたいしてより広い見識をもつきっかけをつくったのがフェノロサであり,後述するが彼の出会いがあって初めてダウがボストン美術館のキュレーター(日本美術,とりわけ浮慨絵)として直接日本美術に接することが出来たからである。このことについては,フェノロサの未亡人であるメアリー・フェノロサの次のような言葉によくあらわれている。「彼(フェノロサ)がアメリカの美術教育制度の改善に尽痺していた当初の頃,一つの新しい高尚な友情か結ばれた。パリから帰国したばかりの若き芸術家,マサチューセッツ州イプスウィッチ市出身のアーサー・ウェスレイ・ダウ(Arthur第2次大戦後,いわゆる抽象表現主義の誕生以後のことである。第2次世界大戦中にを残したかをみようとすることが第1の目的としてあ227-

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