鹿島美術研究 年報第9号
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Wesley Dow)氏との交友である。文字どおり初対面の最初の瞬間から,フェノロサ3.美術教育理論ーコンポジションを中心に4.同時代への影籾教授の知遇を得たことと,その時に日本美術の逸品をいくつか見せられたこと,この一つの影籾がダウ氏の生涯における明瞭な契機となった。」この点を踏まえたうえで,ダウを特徴付ける側面を幾つか上げると,彼が後期印象派の影闊を受けた画家であること,そしてすでに述べたようにフェノロサの知己を得て,ボストン美術館のキュレーター(学芸員)としてジャポニズムの研究者となり,さらにはそれを理論的支柱にした教育者となり,そしてさらには浮世絵,特に葛飾北斎のコレクターでもあった,ということだ。ダウは1857年マサチューセッツ少卜1セイラムの近くに位置するイプスウィッチに生まれた。1884年,ダウが27歳の時に,パリのアカデミー・ジュリアンとブルターニュ地方のポンタヴァンで約5年にわたって画家として過ごしている。ここでは,伝統的なカリキュラム,すなわち裸体のデッサン,そして毎週末の数時間を課外授業として歴史的,神話的,宗教的絵画の完成に費やされた。この時期のダウにとって特筆されることは,フランスの画家たちを魅了していたジャポニズムに触れた点だろう。このことは,画家としてのダウが当時のアカデミーの教育内容のみならず印象派の理論にたいしても少なからず不満を抱き,新たな絵画の方向性を例えば浮世絵における大胆な画面構成に求めていたことが指摘できるだろうし,後にフェノロサと出会って日本美術の罵陶を受ける下地ともなった。以下,研究の主題をあげておく。1.ダウの生い立ちーイプスウィッチとダウところでダウの研究調査を通じて,彼自身興味を示し,制作もした写真について指摘してお〈必要があるだろう。当時の,すなわち19世紀の後半から20世紀初頭にかけての写真の黎明期における作風様式の主流は絵画的写真であり,あるいは写実的絵画の補助的装置であった。そうした中でも,写真における新たな表現形式を追い求め,ある時期の作品にジャポニズムの影評を見ることが出来るアルフレッド・スティーグリッツとダウとの関係もここでは,重要な章をしめるだろう。ある意味では,これは先にも触れたオキーフのに対するダウの影靱,という問題をさらに掘り下げたオキー2. 日本美術あるいはフェノロサとの出会い-228-

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