鹿島美術研究 年報第9号
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@ 桃山時代絵画史の再検討研究者:北海道教育大学札幌分校非常勤講師川本桂子桃山絵画の主流は,武将たちの住まう大規模な城郭や殿館,あるいは彼らが棺越となって建立した寺院の内部空間を荘厳する障壁画であった。それらには,中世以来の大和絵・漢画の両伝統を引いて,さまざまな技法による多種多様な画題の絵画が描かれたが,豪壮な殿館を飾るにふさわしいものとして特に愛好され一世を風靡したのは,狩野派のあみだした「和漢融合」体の金碧濃彩の障壁画であった。実際,私たちが思い描くところの“黄金に満ち溢れた桃山文化”像のかなりの部分は,この華麗な金碧障壁画を負うているといっても過言ではない。そうした絵画史上の主流意識に支えられて,桃山金碧障壁画の歴史的・様式論的研究は,個別の作品・作家研究と共に,明治以来多くの先学諸氏によって進められてきた。そして,そこで得られた障屏画遣品の年代考証と,その外面的及び内面的美的特質の解析を通して,桃山の金碧障壁画はおおよそ三期に様式分類され,(1)前期(永禄〜天正)の躍動的で豪放なものから,(2)中期(文禄・慶長)の優美で抒情性に富むものへ,さらに(3)後期(元和・寛永)の理知性・装飾性を追求するものへと次第に様式変換を遂げていったと概説されるのが通例になっている。その際,各時期の特徴を示す代表作としてあげられるのは,(1)では狩野永徳の唐獅子図や槍図であり,(2)では狩野光信の園城寺勧学院障壁画や長谷川等伯ー派の智梢院障壁画や狩野孝信らによる名古屋城障壁画であり,(3)では二条城二の丸御殿障壁画や山楽・山雪の妙心寺天球院障壁画である。ただ,こうした従来の様式観は,たまたま残った障壁画の年代や画家を基準として組み立てられており,たとえば本米一番問題にしなければならない安土城や大坂城・衆楽第の障壁画といった,この時代の障壁画の中核となる作品に対する考察が欠落してしまっている。また障壁画が描かれている建物の性格や室内空間の大きさといった障壁画をめぐる環境は全く無視され,すべての障壁画を同じ土俵にのせて,比較検討が行われているのも問題である。たとえば,二条城のような武家政治の舞台となった城郭大広間の障壁画と,勧学院のような寺の子院の障壁画を同列に扱い様式論を組み立ててはたしていいものであろうか。唐獅子図や檜図と勧学院の四季花木図を比較して威圧感ばかりが前面に出ていささか潤いに欠けるようになってしまった(1)の様式へ-230

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