に進んだこと。(b)建築史家によって,室町将軍邸•安土城天主・秀吉の大坂城の復原の反省から,漠画派の画家たちが伝統ある大和絵の豊かで情趣に富む表現を再認識・再学習した結果,(2)の様式が生まれたのだという解釈にも再考の余地があるのではないだろうか。さらに(3)の時期以降の,漢画的なものと大和絵的なものの力関係についても,桃山前期の漢圃優勢から次第に大和絵重視へと移行したと簡単には言いきれない。名古屋城の上洛殿の探幽圃に,二条城二の丸大広間の松図のような大圃面構成が見られないからといって,そこに豪放な桃山様式から滋洒な江戸様式への転換があったと言うのでは,両城の性格や殿舎の機能の差はどうなってしまうのか。以上のような数々の疑念を私は常日頃から抱いていたのだか,近年〔(a)桃山の金碧障壁画前史とでも呼ぶべき室町時代の大和絵障屏画の発見が相次ぎ,その研究が格段研究かなされ,また空間の機能やその使われ方といった観点から建築や絵画の再考を促す新しい方法論力吋廿てきたこと。(c)東京国立博物館のプロジェクト・チームによって,狩野晴川院らの残した江戸城の障壁圃小下絵の調査が行われ,桃lVl,1時代以米の城郭障壁画の終着点ともいえる江戸城本丸・西の丸御殿等の障壁圃の具体像が明確になったこと。〕というような新知見か得られるに及んで,桃山時代の障壁画を考え直すための材料もかなりlli揃い,祈しい障壁圃観を提示するべき時期に米ていると感じるようになった。こうした最新の成果を踏まえた上で,桃山時代の障壁圃史に再検討を加えようというのかこの研究の主旨である。ここでは特に,桃山時代の障壁画の中心であった城郭建築の障壁圃に焦、点を絞って見ていくことにする。1)安土城障墜圃とその問題点、織田信長の畢生の大事業であった安上城は完成後わずか三年で灰低見にJ碕したが,永徳か中心となって制作した天主や御殿の障壁画については,太田牛ーの『信長公記』等に圃題や手法の記録があって早くから注目を集めてきた。なかでも流布本『信長公記』の「西十二賢敷,墨絵に梅之御絵を,狩野永徳に被仰付,何れも下より上まで御座敷之内,御絵所悉金也」という記述(注.『信長公記』ではこのようには記されていない)から,安土城を永徳の画業における転換点、と考える見方,言換えれば唐獅子図や棺図のような金碧大画の新様式が安土城で誕生したように考える傾向が強かった。しかし,宮上茂隆氏による安土城の復原研究(『安土城の復原とその賓料に就いて」国華998• 999,「安土城復元」講談杜日本美術全集14所収)でその平面がある程度具体的に提示されてみると,障壁画の描かれていた畳敷の部屋と日される『安土日記』231-
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