鹿島美術研究 年報第9号
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2)秀吉の大坂城と緊楽第の大きさは八畳,十二畳と意外に小さく,名古屋城や二条城二の丸御殿などの各室にはるかに及ばないものであったことがわかった。しかも,それらは一部屋毎に独立し(部屋の境の中央に柱がある),画題的にも一室で完結して隣室とは繋がりがない。つまり,安土城天主は,二条城の大広間や黒書院など後の城郭御殿が,襖を開け放って幾部屋も連続して使用しても不自然ではない空間構成と障壁画の画題構成を持っているのとは根本的に違う性質のものであった。むしろ安土城は,室町将軍邸(たとえば東山殿の会所や常御所)のプランの方に近く,それを幾屈にも上へと栢み重ねた形の建築と言える。このような小さいスケールの空間に唐獅子図のような威圧的な大画面構成の絵画が描かれていたはずがない。宮上氏は信長をして“室町時代最後の将軍”と言われたが,各室のプランや障壁画をみるかぎり安土城もまた,未だ中世的な枠から抜け出ていないのである、と位置付けられるのではないかと思う。信長に代って天下人となった秀吉は,主従関係の確認や家臣間の序列を明確に示すためのく場〉として,対面空間の充実を図り,前代にない規模のく対面所〉やく広間〉を建てた。天正十三年(1585)完成の大坂城本丸表御殿対面所や同十五年の衆楽第大広間は,それぞれ九間x十四聞,十二間X十七・五間という破格の規模を持ち,そこで行われる対面の儀式に際しては,襖を取り払って二室あるいは三室つづきの大空間を作り一大政治ショウが行われたのであった(『大友史料』『毛利輝元上洛記』)。この二,三室を通しにした両御殿の対面空間は,畳数にすれば五十畳以上にもなるもので,ちょうど現存の二条城二の丸大広間の一の間・ニの間のごとき巨大空間を思い浮かべればよい。永徳はこの一挙に巨大化した空間に対峙してはじめて,唐獅子図や檜図にみられるような金碧大画面の花鳥図を考案したと私は考える。ちなみに旧八条宮家襖との伝承を持つ檜図屏風には,二つのグループに分けられるいくつかの引手跡が残されており,その一つは六尺五寸x二間の襖に,いま一つのグループは七尺X二間の襖に対応すると思われる。つまり檜図は八条宮家の御殿襖と思われる六尺五寸x二間の場所の襖となる以前に,大坂城御殿などの大規模城郭建築と同じ七尺を基準に設計された建物の障壁画であったことになる。したがって,檜図は秀吉時代の大空間の中で誕生した金碧大画面花鳥図そのものと言ってよい。また,山根有三氏らによって復元が試みられた祥雲寺障壁画(現智栢院障壁画)のスケール(襖の高さは七尺五寸=227cm)も秀吉時代の大画面花鳥画の大きさを伝えている。232-

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