鹿島美術研究 年報第9号
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3)二条城と江戸城ただし,留意すべきは,たとえ大坂城や緊楽第でも,御座の間のような政治的な用途に使われない小規模の建物では,あまり威圧的でない室町の延長上にある金碧画の様式が採用されたであろうということである。天正十四年に造営された正親町院御所の遺構である南禅寺本坊大方丈の障壁画は,かつて桃山盛期にしては古様すぎるとされたが,一般的な場所の障壁画はおそらく南禅寺に近い様式であったと思われる。上記のような城郭建築障壁画の歴史を念頭において,二条城二の丸御殿障壁画や江戸城障壁画小下絵を見つめ直せば,画家の力鼠の差や画題等の時代好尚の変化といった目先の違いではない,もっと大局的な,大規模城郭建築に連綿と続く障壁画の伝統(定められた方式)を読み取ることができるし,逆に失われてしまった大坂城や炭楽第の障壁画を想定する手かかりをも見い出すことかできるだろう。たとえば,ーの間・ニの間をぶっ通して対面等の儀式に使った二条城二の丸大広間では,二室を一体化した空間として見せるために,床の[廿]に向って両側,すなわち東西両サイドの壁や襖・舞良戸には小壁まで使って巨大な松を連続描写し統一を図っている。東博の小下絵によると江戸城本丸大広間でも上段・中段・下段三室にわたって松鶴図が連続描写されていたことが知られる。一方,部屋の境に襖が設けられている場合でも,江戸城西の丸大広間上段・下段の間のように襖を取り外して使用する時にも不自然にならないように,同じ圃題が選ばれる。安土城では障壁圃の画題は一部屋毎に異なっていたか,二条城や江戸城あるいは党永年間に再建された大坂城では,つの建物全体がほぼ同じ圃題で統一されるようになっているのである。対面空聞の歩みを顧みれば,秀吉の大坂城や炭楽第がその転換点に位置することは想像に難くない。これまでは,慶長の名古屋城と党永の二条城を比較して,二条城から建築や障壁圃が急に大きく豪華になったように考えられてきた。しかし,前者は尾張徳川家の居城にすぎず,将軍家が天皇の行幸を仰ぐべく大改修した後者とは,城のもつ意味や重要度が全く違っている(おそらく,二条城の大広間のような空間を達ることは,伝統的に、、、、最高権力者以外には許されなかったはずだ)。名古屋城をネックに考えるのは意味がないのである。実際,二条城の高さが七尺五寸もある襖や華麗な欄間飾りなどはみな秀吉時代の建築のそれを継承しているにすぎない。以上は,本研究を通して得られた城郭建築障壁画史のきわめて大まかなアウトラインである。今後,さらに査料を細かく分析して各論部を充実させたいと思っている。、、、、、233-

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