鹿島美術研究 年報第9号
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みたる者など多くの人々が本像造立に関っていることが知られる。これは鎌倉中期の忍性であり,南都における初期文殊信仰の注目すべき資料であることをがわかった。次に大和郡山市(横田町)西興寺の地蔵菩薩像について考えてみたい。本像は善円に続く仏師善慶が修補したとの銘記があり,古くから知られていたのだが,補修著しいものとしてあまり注意されなかった仏像である。しかしながら,新出の善円作44歳の地蔵菩薩像(薬師寺)と比較すると,構造・表現の上で酷似するところがあり,再評価すべきものであることがわかった。本像は興正菩藷叡尊の生地,箕田里に近い成満寺の旧仏であったもので13世紀中頃の作と指定され,現在客仏として伝わっている。槍の寄木造で,頭部は前後二材矧とし,挿首とするが,頭部前面の材は三道と胸の肉身部までを通して一材から彫り出している。このような首の接ぎ方は肖像彫刻に多いが,本像では胸内側から鏃形の押え木を当てているのが珍しい手法である。薬師寺の地蔵菩薩像も全く同様の構造になる。本像ではこの鏃形押え木に「修補大佛/師法橋上人位/善慶/口補願主/□大寺比丘園」の墨書銘があり,かつて西大寺叡聰が願主であることが説かれたこともあったが,現在「叡」の字以下は判読しにくい。なお,頭部前面材がV字形をなすように胸部にまで至るものには他に東大寺知足院や霊山寺の地蔵菩薩像があることが知られる。体部の構造はやや複雑である。体部は大略正・背面ともに各一材製とし,その間に細い材をはさみ,両体側に別材を矧ぐ構造になる。ただし,背面や左肩以下などに小材を矧付け,胸腹部の衣も不定形な薄板を細かく貼っている。薄板がはずれたところでは胸くびれを表すような彫刻があり,一種の裸体像に着衣を消せるような手法であるかとも想像されるが,それが全体に及ぶわけではなく,いまのところ,明らかでない。像表面の彩色・切金仕上げも精密さに欠けるところがあるものの,当初からのものとみてよく,「修補」に相当するようなところはみあたらない。銘記中の修補とは失われた仏像の再興を意味するとみた方がよいように考える。本像の特異な構造は足部にも指摘でき,両足は横木各一材から彫り,足裏を方形に例り抜き,別材製の足柄に通している。これは薬師寺の地蔵菩薩像にも共通する工芸的な手法である。ただし,このような技法は善円・善慶だけに限られたものではなく,大和では同じく鎌倉中期の帝釈寺(都祁村上深川)地蔵菩薩像にも認められる。表現の上では本像の容貌は善慶の他の作例ー一ー建長元年(1249)西大寺釈迦如来立(1217■1303),叡聰(1201■1290)らによる窮民救済の文殊信仰に通じる性格のもの236

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