石版印刷が行なわれた。多色石版の口絵挿入の「水彩圃階梯」大下藤次郎,など多色刷りの主流は石版印刷が受け持つようになった。写真か印圃紙に焼付けられるようになってその複製機能は倍増した。図版の代わりに焼付け写真を張り込む方法がとられた。明治4年に太政官御用掛蜆川式胤は,横山松三郎撮影の写真を貼付けた「旧江戸城写真II店」を制作。ついで明治9年,同様に写真貼付けの「観古図説」を制作した。美術品や文化財の焼付けとして扱われた。「観古図説」はその後石版印刷で出版された。昭和4年から「:1」行された雑誌「東洋美術」ではコロタイプ図版とともに写真を貼り込んでいる。こうした例は少なくないか,大絨生産には不向きである。5)コロタイプ印刷コロタイプ(亜膠版)印刷は,跛璃版またはアー)、タイプと呼ばれ,描く作業なしに写真から直接版を作ることかできる。ゼラチンIViに形成される写真圃像に不定形の小ジワを発生させる。これに吸水させ,膨張させたものが版となる。小ジワは非常に細かいので1、印刷された圃像をルーペで;;羊細に観察することもできる。また,写真圃像のもな階調を忠実に再現できるため,複製製作にはもっともふさわしい。実用化されてから多色刷りも可能になり,今日まで複製印刷の主流をしめる。明治13年,大蔵省印刷局技師三枝守富か`コロタイプ印刷による古圃の試刷に成功したとされる。明治16年,印刷局で,コロタイプで古圃(明珍賢「観音図」)複製の印刷を試みた。明治17年,小川一虞はアメリカでコロタイプ法を習得。明治22年,「国華」刊行。コロタイプ図版,複製印崩は本格的に盛んになる。複製の翫要と製作明治時代の複製は,ひとつの作品についてごく僅かの数しか作成することができなかった。それでも熱心な蒐集家が多く存在していた。複製の対象となったのは当時すでに美術品として評価の定まっていた作品が主であったが,複製・頒布されることによって評価を得るに至った作品も少なくなかったと思われる。頒布の流通構造の多くは会員制度で,その組織は一般に会員を募るものから,あるいはきわめて小数の特別な組織まで多様であった。また,美術教育の隆盛に伴う,教材としての複製も普及した。またさらに国外作品は高級な複製集4) 243-
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