Zズの複製流入も注目すべきものがある。明治37年頃はミレーの画集(写真版)の輸入が盛んになり,以来洋画紹介も相次いだ。明治44年,「白樺」誌は後期印象派画家を紹介している。その後の芸術思潮に影籾をおよばす契機のひとつである。法隆寺金堂壁画の模写嘉永5年(1852),鵜養徹定(1814-1891)は奈良・法隆寺に赴いて古写経を探査し,金堂壁画の考証記として「法隆寺金堂壁画佛像記」を残した。同記によれば,徹底は法隆寺に於いて侍者・祐参に西壁「阿弥陀浄土変相図」(第六壁)を模写させたことが知られる。現在,放光寺に蔵される阿弥陀三尊図かこの模写である。(法量縦255,0cm現状は三幅対の掛幅として仕立てられ,裏面には撒定の筆で「此幅和州法隆寺金堂西壁所驚而、為図像之祖也、慈相端巌古稚不可言也今弦丁卯春晩萩真下翁将供誤五百羅漢像於甲州放光寺、余感喜之餘、寄贈之、以永充其本尊慶應三年丁卯仲苫佛眼山第四十五世竺撤定識」とあり,「法隆寺金堂壁画佛像記」の記述を裏づける。文中に見える真下晩萩(17.99-1875)とは,目黒の五百羅漢堂の羅漢像に心酔し,放光寺に五百羅漢画像をもって羅漢堂を建立しようと発願し,二百二十幅(現存分,っち百四十は未表装)の五百羅漢像の画幅は放光寺に寄贈した。徹定はこの晩松の発願に感動し,同寺に本尊として阿弥陀三尊模写像を寄贈したのであった。当時すでに,オリジナルの金堂壁画は相当傷んでいたと思われるが,模写では欠損した部分も復元的に描き起こしている。紙本に,比較的早くて細い墨線で描き,オリ横140.5cm,左右幅各縦204.0cm横83.5cm)-244-
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