たつけ流砲術のネ且。永禄11年(1568),父景定が織田信長によって殺された後,摂•津国三田に目されるのは,「十鏡之図」(10•Illl·,田付景澄筆,綴葉装)の料紙装飾である。多岐にわたるが,1 〜27と28■37とはもと別のセットであったと思われる。「十鏡之図」第一にはつぎのような奥書がある。右十鏡之図,我家之重宝此道之妙法也。雖然,種々御執心御懇望二付而,秘伝不残悉御相伝申候。毛頭他見口外不可在之者也。慶長拾七年霜月吉日I殿乞この秘伝書を伝授した「田付兵庫入道」は田付景澄(1556■1619)のことで,田付逃れ,砲術の修業をしたといわれ,当時稲富ー夢,安見右近と並んで鉄砲の三名人と称された。その技により,慶長18年(1613),徳川家康に召し出され,下総香取郡のうちに五百石を与えられた。大坂夏の陣では土井利勝に属し,大坂城へ砲撃を加えた。元和5年(1619)10月14日没。64歳。残念なから,伝授された人物の名は削り取られていて不明である。「十鏡之図」(28■37)の第二以下にもそれぞれ上を略述した奥書があり,日付は第二か慶長17年(1612)12 月吉日,第三以下が慶長18年正月吉日となっている。一方,残りのセットは,「家宝不伝集」(3)にのみ,年記を伴う奥書がある。此書物私家之重宝此外無之候。是ヲ極妙二仕先子一人二相伝仕候。笈ヲ以名付而家宝不伝集l、申候。iit殿殊二此道被成御執心御懇望不浅存,工夫口伝不残悉御相伝申候。此書物ハ質殿御息子ニモ一切不可御相伝候。御壱代之御重宝二可被成者也。f乃奥書如件。右以自筆書之元和弐年五月吉日つまり,このセット(以下,元和2年本と[1乎ぶ)は,「十鏡之図」より3年ほど後の元和2年(1616)に書かれたものということになる。紙・裏表紙は,上下に段替り,あるいは斜線で区切って片身替りとしたものが多く,極彩色で浜松図や花木を描いた図と,金銀泥で同趣のモチーフを描いたものとを継ぎ田付兵庫助入道(花押・朱印)田付兵庫助入道(花抑・朱印)I -247-
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