いなどめいちむ用し,金銀泥で,松林・網干•藤・竹に雀・稲穂に雀・柳・萩・河骨•朝顔などを描来のオーソドックスなタイプである。田付景澄自筆の3を除く26111]•の本文がすべて一に銀泥の界をほどこす。8■27は素紙に淡彩の付立で草花や海賦文などを抽くが,個々のモチーフは比較的小さく,光悦流を能くした小島宗真(1580■1655?)の和歌巻などにしばしば見られる下絵と相通ずる画風をもっている。3は深緑と淡茶の染紙を交く。モチーフは大きいが線描の使用が目立ち,「十鏡之図」とはやや異なった画風を示す。1 • 2 • 4■ 7の6rl店は緑の染紙に金銀泥で,草花や棲閣などを描き,金泥で輪郭し,内側をは‘かした雲を多用,また金銀の箔や砂子で装飾する。画風は室町時代以筆で,光悦流であることも注目を引く。光悦筆という「刀匠伝書」(大和文華館蔵ほか)などとの関連も考}慮すべきであろう。な秘伝書の宛名は削り取られていて判読できないか‘,おそらくしかるべき大名の名が書かれていたと思われる。下絵のある田付景澄の同趣の秘伝書か『大日本史料』の元和5年10月15日条に掲載されており,この種の秘伝書がはかにも現存する可能性が高い。ところで,稲富ー夢(1552■1611)を流柑とする稲富流の「稲富流鉄砲伝書」(25I帖・大和文華館蔵)も緊華な秘伝書である。奥書から,ー夢の流れを汲む浜口勘右衛門から,慶長17年(1612)9月吉[],「越前少将」すなわち松平忠直(徳川家康の孫・1595■1650)に伝授されたものであることか知られる。この年忠直は18歳,前年,左近衛椛少将に任ぜられ,越前丸岡城に入っているところから,祝賀の紅味を込めて進呈されたものと推定されている。忠直か「中川右京」に伝授した「矢倉之巻」と題する1rliりを除いて,残りは同じ装丁になる。表紙は紺紙で,金銀泥で幾何的なの地文の上に,三葉葵紋・菊花紋・七五桐紋を描く。本紙は茶色の染紙,金銀泥で雲や設の間に,各種の草花・花木のほか,牛車・柳橋水車・綱干・提子・棲閣山水などさまざまなモチーフを揺く。描写は細緻で,本格的な圃技を習得した絵師の手になるものと思われる。特記すべきは,各巻未に下絵の筆者の落款あるいは標識と思われる「光、」という文字が見えることである。宗達派の下絵に「伊年」の印があるのと同じ意識であろう。画風には琳派風はなく,むしろ狩野派の趣きがある。以上,奇しくも伝来した同時期の鉄砲伝書の下絵について見てきたか,いずれも近世初期の斬新なスタイルが認められる。今後も調査の幅を広げ,近世全体の金銀泥絵の様式の変遷を跡付けてみたい。こママ-249-
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