⑯ ウィリアム・プレイクの「夜想」挿絵の総合的研究ロ(1669-1773)の挿絵付きの本を皮切りに,1756年のフランシス・ヘイマン(?1707 -76)の挿絵付きのもの,1767年のルイ・フィリップ・ボワタールによる後者の改訂版43点,水彩画で537点という規模の試みは,後に述べるその出版の形式もさることなが研究者:京都市立芸術大学助教授潮江宏―1.『夜想』挿絵集の位置づけエドワード・ヤング(1685-1765)の『夜想』(正確には『夜の想い,あるいは不満と慰め』)は,1740年代に書かれた10,000行以上に及ぶ長篇詩で,19世紀の半ば頃にその独善的な道徳臭と抹香臭さが批判されるようになるまでは,広く読まれ,何度も版を重ねた当時のベストセラーであった。それは,主人公たる詩人の,生と死をめぐる観念的な遍歴の物語であったが,これを挿絵化しようという試みは,いまだ文学と絵画の間に姉妹芸術としての関係が継続していたこの時代にあっては意外と早くからあり,ブレイク(1795-6)以前には,ハメルマンによれば,1743年のユベール・グラヴが知られている。しかし,これはいずれも数点の挿絵を施したものに過ぎず,本格的な挿絵集の制作は,ブレイクをまたなければならない。ちなみにプレイクの友人で挿絵の分野ではライヴァルとなったトマス・ストザート(1755-1834)も1798年に『夜想』を手がけているが,その点数は8点に過ぎない。したがって,出版された銅版画集でら,このテクストに関しては,それ自体で驚異的なものであったことは疑いない。銅版画集として位置づけブレイクの『夜想』の制作は,1795年,R.エドワーズが「このうえなくすぐれた銅版画師」ブレイクに挿絵付きの新版の出版の相談をもちかけたことに端を発している。ブレイクは早速水彩で「下絵」の制作にとりかかり,わずか1年ほどの間にそれを537枚描き,そこから版を起こしにかかった。結局,主に経済的な事情から,九夜に及ぶ全体のうち,第四夜までが出版され,その後は断念された。ここでいう銅版画集とは,それのことである。当時の挿絵本は,まず表紙を開いた頁に縦長に口絵(たいていは著者の肖像,もしくは著者の業績を象徴する場面」を描き,後はテクストのなかの適当なところに数点もしくは十数点の絵が同じように縦長に挿入するのが普通であった。それでもその挿-250-
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