過ぎなく,けっして十分とはいえない。ブレイクと水彩画画家としてのブレイクが,表現手段として油彩画をほとんど用いなかったことはよく知られている。その分野での彼の表現手段は,水彩による素描と,彼が工夫し復元したと信じた「持ち運び可能なフレスコ画」を媒剤として用いた一種のテンペラ画ったことは動かし難い。ブレイクは,油彩画全盛の時代におけるこうした偏った制作の立場を,まだ明暗法が残存し,褐色系の色彩を中心とした当時一般の油絵を「しみと汚れの画派」として批判する一方で明哲な輪郭線を使用することを強調し,逆説的ながらそれこそが色彩本来の輝きを活かした画法であるとして,理論的な弁明をなそうとした。これには,素描学校での学習,銅版画師の工房での徒弟修業という経歴を梢んで,数力月ながらロイヤル・アカデミーの学校にも学んだが,結局本格的な油彩画法の勉強をすることのなかった,それもどちらかというとマイナーな経歴をもった人間の強弁という意味合いもないことはない。しかし,この弁明の書かれた1810年前後の時代には,すでに彼は,先に紹介した2種類の表現手段を自家薬篭中のものとしており,世評はともかく,それらに基づく成果も焙実に挙げつつあり,そうした自信と誇りを背景にした発言であることは疑いない。ところでイギリスにおいては,17世紀初頭の頃から素描をジェントルマン以上の階級の人間に欠かすことのできない素養とする意見が一般的なものとなり始め,それがやがてオックスフォード大学やケンブリッジ大学における素描学校として定着していった。18世紀後半に生きたブレイクが学んだ学校はそれが中産階級にまで広がり,産業振興という新たな眼目のもとに経営されていた学校である。だから,家督を継ぐことのできない職人の次男坊であったブレイクが,他の生業の可能性を求めてそうした学校に通うのは何ら不思議なことではない。ブレイクがそこで何を学んだかについては,すでに拙著でさまざまな推定を述べておいた。が,それが技術的に見て,鉛筆の素描,ペンとインクによる素描が主たるもので,せいぜい数色の絵具を用いた水彩素描であったことは,一応改めて確認しておきたい。前半期の仕事が複製銅版画や「彩飾本」に傾斜するなかで,下絵スケッチ的な鉛筆やペンの素描のほかに,ブレイクは,いくつかの注目に値する素描作品を描いている。実際は「大工のニカワ(材質不明)」を中心とするもので,前者がその中心であ-252
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