鹿島美術研究 年報第9号
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に10年経つうちにはブレイクの代表作の一つである『聖書シリーズ』となり,さらにまず,銅版画師の徒弟時代にウェストミンスター寺院のゴシック時代の墓碑や石棺を描いたもので,これは,その考古学的資料の記録という実用的な目的から忠実な描写となっている。慎重かつ正確だが勢いや個性には欠けた線,物そのものに忠実な彩色がその特色と言えよう。彼か,絵具を使った素描も習得していたことは,そこに一応確認できる。しかし,1785年前後にロイヤル・アカデミーに出品する目的で描かれた水彩画は,こうした職人仕事とは違って,未熟だか,すでにブレイク独自の方向性を見せていることが観察される。それらの特色は,概して色彩に対してはそれほど栢極的ではないこと,ペンによる輪郭線は,勢いをもっているが人体把握という点では,形の理解がいささか抽象的であること,しかもバロック時代のインク素描から派生したグレー・ウォッシュを勢いよく掃いたような,これもまた描写対象にかならずしも忠実ではないいささか抽象的な塗りを多用する傾向があることが確認できる。なかなか清新な魅力には富んでいるとはいえ,まだまだ未熟な感じが残る制作ぶりであることは確かである。その後ブレイクの仕事上の関心は,1795年までの10年l閏は,版面の知識を応用して生まれた「彩飾本」に傾斜して行った。だから銅版画挿絵集の制作は,久しく手掛けてはいなかったか,自らの経歴の初めにおける芸術的野心に立ち辺るという紅味合いも幣びていた。なかでもその際に用いられた水彩画という表現手段か,それからさら『ヨブ記挿絵集』へ続く形で充実を見ることは,その発端における『夜想』の謡義を予想させるものである。その場合,もっとも単純な推址は,これまでにも例のない537枚という絨の水彩圃を制作した経験か,その後の水彩圃制作の技術的な鍛練の機会を提供したということだろう。それはそうだろうか,その時,『夜想』の仕事全体が銅版圃集を最終目的としていたことがもう一度想起されなければならない。最初から水彩圃による連作を目的としていたもの(『聖書』)と後に銅版画集になるか水彩画制作の時点では,そうする予定がなかったもの(『ヨブ記])と同列に論じることはできない。下絵素描と水彩画銅版画制作における分業は16世紀のネーデルランドにおいて一般的になり始めたが,その下絵画家と彫師の分業においては,下絵圃家は,完成画(その当時でいえば油絵のすみずみまで描きこまれた仕上がった絵の謡)ではなく,一般にトーンを施した素-253-

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