鹿島美術研究 年報第9号
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結論のみを述べれば,平安時代の清涼殿の内部には,「晴」(または公,あるいは表)の性格を持つ空間と,「褻」(または私,あるいは裏)の性格を持つ空間があり,そこに置かれる障子にも,この空間の性格に即した絵画が描かれていた。その最もわかりやすい例を,「母屋五間」(「晴」の空間である母屋の昼の御座と「褻」の空間である西庇を区切っていた5間<註>)の障壁画の主題の区別にみることができる。文献によれば,障子の両面のうち,「晴」の側には「唐絵」を,「褻」の側には「和絵」(「やまとえ」と読まれたと思われる)を描いていたことが判明する。ここには明らかに「唐絵=晴・公・表」「やまと絵=褻・私・裏」という使い分けの意識が認められる。これは,「昆明池障子」や「荒海障子」の表裏に描かれた絵画の主題に関しても同様である。つまり,障壁画の主題は,その絵の前に広がる建築内部空間の性格と密接な関係があるということである。言い換えれば,障壁画は,その前に広がる空間の性格を,視覚的にアピールするという機能を果たしていたのである。そしてそのように考えると,これまで一般に認められてきた事項についても,再考の余地があることがわかってくる。たとえば,昼の御座の石灰駆の西に立てられる「四季御屏風」は,これまでは「やまと絵」と見なされてきた。しかし,昼の御座という空間の性格を考え併せれば,これは「唐絵」であったと考える方が自然である。もちろんこれまでにも,清涼殿内の「唐絵」と「やまと絵」にはそれぞれ定まった場所が与えられていた,という指摘がなかったわけではない。しかし,その与えられる場所が絵画にとってどのような意味を持っていたか,あるいは,絵画がその場所においてどのような機能を果たしていたか,という観点から行なわれた研究は,ほとんどなかったのである。障壁画に関して,今後は,こうした観点からも考察を進める必要があろう。幸いなことに清涼殿は,平安時代の平面をほぼそのまま伝える建物が,現在も京都御所の中に遺されている。したがって,障壁画と建築とを綜合的に考えようとする場合,清涼殿は,まさしく恰好の事例と見なされるのである。なお関連論文として,西和夫・小沢朝江「寛政度・安政度京都御所の障壁画制作における小下絵について」(『日本建築学会学術講演梗概集』1992年)がある。次に(3)のアプローチについて記す。これまでにも画中画を使った研究は行なわれてきたか,その史料の扱い方はさまざまで,説得力に欠けるものも一部に見受けられた。今回の共同研究では,まず絵巻作品から画中画史料の収集を徹底して行なうことを決-262-

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