<註>によって障壁画の様相が異なるという認識を,絵師が持っていたことがわかる。以上の通り,本研究は継続中であり,特に画中画の収集と分析は,まだ緒に就いたところである。しかし現時点では,こうした悉皆調査的な作業を行なうことに,大きな意味があると考えている。今後も,この作業を継続していく予定である。なお本研究には,湘北短期大学助手・小沢朝江(建築史),神奈川大学大学院生・茶谷亜矢(建築史),学習院大学大学院生・亀井若菜(美術史),同・昼間範子(美術史),同・成原有貰(美術史)が参加した。茶谷亜矢「『春日権現験記絵』からみた鎌倉末期の住宅内部空間に関する研究」(『平成3年度神奈川大学大学院工学研究科修士論文発表講演論文集』)の一部にも,この共同研究の成果が取り入れられている。「母屋五間」の障子の具体的な形態について,文中に引用した拙稿では,5間すべて引き違いの鳥居障子であろうと書いたが,これに対し,北海道工業大学教授の川本重雄氏(建築史)から,口頭で,次のよこうな御教示をいただいた。この5間の全てを引き違いの鳥居障子と記す文献は,比較的新しく史料が多く,平安時代の「年中行事絵巻」(江戸時代の模本が遺されている)等によって考えれば,南端の1間のみが引きいで,それ以外の4間は押障子(嵌め殺しの障子,つまリパネル)であったと判断する方がよい,したがって「伴大納言絵巻」の清涼殿の描写は,この限りでは現実を反映していると考えられる,というものであった。確かに,晴の空間と褻の空間を区切る機能を持つ障子が,5間とも引き違い,つまり通行可能な形態である必要はなく,南端の1間だけを鳥居障子に作って通行可能としておき,あとは紫哀殿の賢聖障子のように押障子を立てる方が,空間の機能を峻別することになるかもしれない。川本氏の御教示に感謝したい。ただ「伴大納言絵巻」の建築の描写がどれほど現実に即したものであるか,という点に関しては,なお検討を重ねたいと考えている。264-
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