鹿島美術研究 年報第9号
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ラールによって指摘されている。彫刻に対する絵画の優位を説いた以下の文である。「(彫刻は)決して絵画と同等な地位に到ることはできず,空気の存在,動き,光,パースペクティヴ,人物の生命等を再生する能力がないため,単なる装飾芸術の地位にとどまる運命にある」「彫刻が,唯一つの視点を持とうと努力しても無益なことである。像のまわりをめぐる鑑賞者は,最もよいものを別にして,何百という異なった視点を選択できる。さらにまた,_それは芸術家にとって屈辱的なことなのだが一光線の偶然やランプの明かりが,芸術家の想定しなかったような美をあらわにすることがある。…ところが絵画はひとつの視点しか持ち得ない。絵画は排他的であり,専制的である。だからこそ絵画の表現は,はるかに強烈なのである。」こうした公式論者的意見に対し,ロッソは逆に「芸術とは本来一つのものであり,不可分のものである。慣習的な技法による分類は何の意味ももたない」とし,自らの造形理念を拡張していく契機となしている。ロッソのパリでの活動とロダンとの出会いについては,1884年に初めてパリに出て,彫刻化ジュール・ダルー(1838-1902)の助手となり,同じくそこで助手をしていたロダンと偶熱知り合ったと伝えられているが,このことには,何の根拠もない。1885年パリのサロン・デ・シャンゼリゼに《ガリヴァルディーノ》を出品したが,この時もパリに赴いたかは定かではない。1886年のパリのアンデパンダン展に《母と眠る子(母性愛)》,《ガヴロッシュ》,《老人》,《女衝》,《ガリヴァルディーノ》を出品し,新聞の記事などで反聾を得た。しかし,長期のパリ滞在は,1889年6月万国博覧会への出品の際であった(《ガヴロッシュ》,《母性愛》,《女街》,《他人の肉》,《門番の女》などすでに公開済みの作品が出品された)。展覧会以上に重要なことは,この滞在の折,多くの文化人の交流が生まれたことである。8月ゾラに会い,その後,エドモン・ド・ゴンクール,ポール・アレクシスをはじめ,ロッソの熱心な後援者となったアルマン・ドリア伯とも知り合っている。同年の10月,パリのラボリジェールに入院し,《病める人》,《病の子》,《笑う少女》を制作している。著名な収集家アンリ・ルアールと知り合うなど,多くの知偶を得たこともあり,1890年11月パリで最初のアトリエをフォンテーヌ街19番地に構えた。以後アトリエを移しながら,制作と展示をパリで展開していく中で,ロダンとの交友が生まれ,深められていくことになる。1894年ロダンがロッソのアトリエを訪れ,不在であったロッソヘの昼食の招待状として,熱狂的な賞賛を伝えた。「ロッソ様私266-

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