鹿島美術研究 年報第9号
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que socialiste, 3 mai 1898)。このことは,二人のプライドを傷つけることになり,は大変感動しました。アトリエについた時に私は,あなたの自然のみごとさに感激しました。あなたの住所を知らなかったので手紙は書きませんでした。私は幸せです。次の土曜日に一緒に昼食をして下されば嬉しく存じます。またすぐお会いしましょう。ロダン」二人の友情は互いの作品を交換するほどの深まりを見せた。ロッソは《笑う少女》をロダンに贈った。そのお返しにロダンは,半等身大の《歩く人》の《トルソ》をロッソに与えた。後日ロッソはまた古典彫刻の模刻である《ヴィテリウス像》をロダンに贈っている。また,1895年のロダン宛の手紙の中でロッソは,「3mX2m」の自分の作品をロダンの「パヴィリヨン」の中に展示してもらえないか頼んでいる。しかし,1898年,ソシエテ・ナショナルのサロンにおけるロダン作《バルザック》が公開されたことで,二人の交友が変化することとなった。このロダンの《バルザック》にロッソの影摩堺が多く見られることが新聞で憶測されたのである(Lapetite republi皿友情は絶たれ,以後二人の間に書筒かかわされた形跡はない。ロダンの《バルザック》は,ロッソの《新聞を読む人》,《かけ屋》,《庭園の会話》に登場する男の横顔をもととしたと指摘されたとしても不思議ではない。これらのロッソ作品では,斜めに配慨された人物が大胆で暖昧とし,凝縮されたシンボリックな像となっており,《バルザック》への影評が推測される。しかし,ロダンの《バルザック》像の最終的形体の決定には,日本の僧侶の装いやあるいは他の19世紀彫刻家の多大な影翠限,そして,よく知られているロダン自身の長い間の試行錯誤などから,ロッソの影評がすべてではなく,ロダン自身による問題の解決か大きな要素となっている。この論争が評び水となって,1901年,エドモン・クラリスの論文「彫刻における印象主義について:オーギュスト・ロダンとメダルド・ロッソ」(『新批評』)が発表された。ここに作品のオリジナリティーの些細な先取り論争ではなく,造形上の問題である彫刻における印象主義の議論となった。クラリスは序文で次のように述べている。「ロダンもロッソも共にその勇気ある,真に美しい作品によって装飾的芸術に抗い,彫刻における印象主義を支えている。彫刻が理想美や調和のとれた形の組み合わせを追求するばかりの装飾芸術に専念すべきだとする者たちに対して,この2人の彫刻家は逆に現実を直視し,明暗の科学と取り組むべきであることを確認している。この2人が質賛すべき革命運動を起こし,我々にその性格,傾向,結果を探る興味を抱かせ-267-

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