② 浅井忠と漆工芸第3号,明治37年6月)という文章で詳しくわかった。浅井は,図案家の職人主義を治37年7月刊)に掲載された,杉林古香が浅井の談話を記録した「図案の線について」研究者:東京大学美術史研究室研究員明治35年の秋,画家浅井忠は2年半のフランス留学から帰国すると,意図的に伝統文化が生きている京都に移住し,絵画制作の他に,はじめて図案,工芸にも深く関わる。この断固とした転回の背景にはパリのジャポニスムとの出会いがあるのはすでに指摘された通りである(註1)。こうして浅井は,様式にこだわりなく,きわめて自由に,ヨーロッパのあらゆる新しい造形運動(アール・ヌーヴォー,ワィーナ・ビッツェション等)や日本の過去の芸術に,工芸を革新できるフォルムを求めて,自分の作品に応用した。そして明治40年12月に急逝するまで,漆工芸,陶芸,染織などの分野で活発な造形活動をみせたのである。没後,周囲の友人たちの手によって,これらの作品は彼の洋画,日本画と同じレベルで,『黙語図案集』(藝帥堂,明治42年干ll)として一lll}に収めるほどであった。その中には蒔絵図案30点,漆器5点かのっていて,漆おける浅井の業績をみることかできる。しかし,これらの作品は浅井が描いた蒔絵図案の一部にすぎないと最近の調査でわかった(註2)。私もこの間,蒔絵師杉林古香の遣族に保管されている図案誌『小美術』,浅井と古香の共同制作品とその図案・置目,「京漆I贔l」関係史料などを調べる機会にめぐまれた。これらの賽料によって,浅井忠と杉林古香の関係,「京漆図」における浅井の指導的な役割などが明らかになった。正岡子規が『ホト1、ギス』で月並派の俳句を排除し,俳句界を刷新したことをモデルにして,京都の図案界を革新する主旨で,図案誌『小美術』創刊という冒険的試みをした若手の芸術家たちがいた。指淋や協力を求めて明治37年4月11日に浅井を訪ねたこれらの芸術家,すなわち律田青楓,西月一草亭,杉林古香は,浅井から予想外の大歓迎を受けた。この初対面は,調査によって見つけた「黙語先生を訪ふ」(『小美術』排斥し,図案家を美術家として認めることを主張し,図題,配合,配色の新しい美術的な図案を試みていた彼らに賛同し,『小美術』を支持して,図案論までのせた。浅井のデザイン思想を知るための査料は今までほとんどなかったが,『小美術』第4号(明という文章も見つけた。この文章で浅井はまずアール・ヌーヴォーを例にして,線の271-クリストフ・マ)□r
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