第11巻2号,明治40年11月)などの文章では一草亭は,蒔絵の歴史における光琳の役統一・調和について論ずる。しかし浅井はこのアール・ヌーヴォー様式を取り入れるべきだといったことはいっさい言わない。むしろ,アール・ヌーヴォーには「日本画,日本模様なりの感化が余程あるだろふと思ふのです」と言い,日本美術とのつながりを重視している。浅井の蒔絵図案については,同じことがいえる。<髪すき人物養買箱>(『古香作品集』第2集,藝帥堂,明治42年刊に掲載)<漆器食籠図案>(『黙語図案集』掲載)などは一見アール・ヌーヴォー風といえそうだが,それは江戸工芸によく使われたモティーフでもある。浅井はアール・ヌーヴォーだけではなく,日本の伝統的なテーマ,様式を参考にして蒔絵図案を描いたと思われる。浅井自身は「図案の線について」の中でそれをはっきり認めて,次のように言っている。「図案の線は純正絵画の線と違って只絵の趣を表はせばよいと云うのではなく主として装飾的な快感を要するのですから,狩野派の様なぎくぎくした節くれ立った様な線や,円山派見たいな繊細な線は面白くないので,図案の線は矢張り光琳,光悦なぞのそふこせつかない,大手な,ぬんめりした線が一番よいので夫に次で大和絵,浮世絵なぞの惣じと柔い方の線が適当である」ここで浅井は自分の国の美術に対してジャポニズムの芸術家たちとまったく同じような見方をしている。つまり日本の絵画の伝統的な流派の中からきわめて自由に蒔絵図案の着想をえたのである。浅井にとって,図案に一番適しているのは,自然の厳格な写生を主としている円山派,あるいは狩野派ではなく,光琳と光悦の線なのである。浅井はフランス留学中からすでに『光琳百図』からモティーフを模写したり,借用したりしたのだ。杉林家蔵の資料に浅井がデザインした,松,梅,桜,竹のモティーフを円型に巧みに構図した6枚の皿の写真がある。これは光琳の独特の線を充分に思わせて,「小西家伝来尾形光琳関係資料」にある<松図蒔絵箱下絵>や椀あるいは盆に装飾するために円型にあわせて抽かれた<松の図>などと不思議なほどよく似ている。その他に,杉林古香が浅井の図案にしたがって制作した<牽牛花蒔絵手箱>も光琳の傑作く八橋蒔絵硯箱>に倣ったと思われる。浅井の蒔絵図案にあらわれている光琳の影評は,西月同人たちによる意匠家としての光琳の再評価につながる。「図案家としての光琳」(『小美術』5号明治37年8月),「光琳会の記」(『小美術』上同),「蒔画論」(『ホトトギス』割を論じ,浅井と古香によって光琳の芸術が復活したと主張している。をはじめ,『小美術』の272-
元のページ ../index.html#294