鹿島美術研究 年報第9号
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ゅうな時期である。)と後の2時期に二分してすすめられた。内容については,前半では(1).中国最古の王朝やその形成について。(2).形成期の諸状況(祭祀,都市の起源,文化・文明の側面など)に関するものが取上げられ,考古資料や古典文献を駆使して行われた。後半では殷墟期に関する発表が圧倒的に多かった。ここでは,甲骨文を資料とする場合と,考古遺物や遺跡を資料とする場合に分けられる。前者では(1).多方面にわたる記載内容に関する発表(城邦の形態,邑と族,王位継承ほか),(2).釈字,(3).甲骨文研究上の諸問題(甲骨断片の綴合,文字が反対に刻してある倒書,新資料紹介など)などが扱われた。この(1)の発表の中に,今回私が副次的に取上げた大方鼎の出土地点,山西平陸に言及するものかあった(張永山「卜辞諸恐小議」)。この地に殷の方国(四方の付き従う国)があった可能性について触れる部分があるもので,大方鼎の出土地としてその性格に関心をもっていた私にとって見逃せない指摘であった。後者では青銅器を扱うものが最も多く,ほかに遺跡そのものを取上げたものがあった。私が発表を割当てられたのはこの部分であることは言うまでもない。この部分では最初に私が発表し,次にMrs.Huberハーバード大学教授か続いた。女史は,美術史的立場から青銅器を研究しておられ,「鄭州から安陽までの青銅器の風格」と題する論文を発表され,その主張の中で,器体全体の風格や各部の文様意匠は鋳造法との関係を抜きにしては語れないことを指摘されていた。部)小1期から殷墟期という長い期間を取上げているだけ,実際的な指摘をするものではなかったが,私の考えときわめて近い。次に英国ロンドン大学の‘i王涛氏(博士生)から,殷代青銅器を飾る最も重要な文様である通称襲碧文の含義を,同時代の文字資料である甲骨文の方向から解く論文の発表があり,極めて示唆に富んでいて注意をひいた。続いて鄭州商代鋳銅遣址の年代などについて,鄭州大学歴史研究所副教授の陳旭女史から発表があり,更に殷商青銅礼器の組合せの変還について,安陽市文物隊館員の孟憲武先生の発表があった。江西樟樹博物館の黄水根先生からは,多くの青銅器を出土した近年の大発見である江西新干商墓を交えた江西呉城商文化に関する発表があった。この遺跡からは,殷中期青銅大方鼎の出土が報じられており,私は大変関心を寄せているところである。江西新干商墓を含む発表は,要旨一覧には江西の関係者によるものが他にも一篇数えられたが,口頭発表は無かった。遺跡見学は,1履師二里頭遣跡・1履師商城遺跡,陣列館見学は,1履師商城博物館・社会科学院考古研究所洛陽工作姑・洛陽博物館・古墓博物館である。ほかに単独で洛陽市文物工作隊陳列館を見学した。この中で圧巻は,杜会科学院考古研究所洛陽工作姑てつごうとうしよ-294-

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