の陳列館で,報告書で見なれた重要な遺物の数々が居並び目を奪われた。それらを観察し,撮影することができたのは大きな収穫であった。普通,個人で訪問した場合は参観は許されても撮影は殆ど禁止される。この一事だけでも学会に出席できたことを深く感謝したい。洛陽市文物工作隊の陳列館は,これまでは,紹介されていた先生の不在などで見学できなかったところである。学会で小休止と思われた龍門石窟・白園・関林の見学のあった20日の午前中(龍門は1982年,関林は同年及び今回16日に一応見学済みである。)別行動をとり,洛陽博物館の馬卓亜女史に禅かれて実現した。これにより,現在私が関心をもつ時期の主要な遺物は,ここには無く,それらは洛陽地区では上記の1履師商城博物館と杜会科学院考古研究所洛陽工作姑に集中していることが分かった。しかし,ここで西周期の青銅器の鋳型や青銅器,同じく西周期の甲骨遺物などをはじめ,新石器から清代までの洛陽出土の賞重な追物の数々を見ることができたのは幸いであった。ビデオテープでは,江西新干商硲の出土状況,l廿土遺物,出土青銅器の科学的な処理の状況を見ることができた。私の学会廿9:i席の目的の一つにまさにぴったりはまった企画である。鄭少卜1期と報じられている,実見は望むべくもないとして,せめて器影を見ることを熱望していた青銅大方鼎も映し出された。器腹の装飾滋匠は,思った通り,今回発表した鄭州出土の二里岡上屈期青銅大方鼎と同じだが,把手の上に烏のようなものが附き,造形全体に地方性と同時に手恨れて鈍化した風があり,発表されている時期については疑間を懐くことになった。ビデオテープではほかに二里頭遺跡出土品の数々も紹介された。学会に出席できたことのプラスはこれだけに留まらない。多くの方々に助けられ,また多くの研究者を知り,研究者としての友情も育まれた。私は,既に記した諸家のほかにも,当該時期を研究する老大家や若手研究者など,多くの方々に禎極的に面識を得るよう努め,諸氏に今回発表の前段階にくる小論を洛陽で急濾コピーしてお渡し,今後の交流を約した。また,肖良琉女史(中国杜会科学院歴史研究所)は,今回出席していないか,私のように美術史の立場から青銅器を研究している中国の若手研究者を紹介して下さり,李紹連先生(河南省杜会科学院歴史研究所)は今回の発表に関する考古学的な側面の新知識を与えて下さった。今後息長く研究を続けるために,今回の学会出席は,私に大きな力を貸してくれたことは間違いない。ただし,これを生かせるかどうかは,今後の研鑽に拠るところか大きいことを忘れてはならないと肝に銘じている。-295-
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