鹿島美術研究 年報第9号
321/428

at the age of Diderot, Chicago University Press, 1980)を評して次のように述べてDesire, Cambridge UP, 1984) 18世紀半ばから19世紀のフランスのみで機能する概念であることを強調している、点でに論じられたが,その中でフリード教授の著作はしだいに注目を浴びるようになってきた。既に1960年代に美術批評家として,美術批評におけるフォーマリズムに対して方法論の修正を求めていたフリード氏にとって,今日露呈された様式史の限界こそ彼の出発点であった。例えば,新しい美術史学を標榜するノーマン・ブライソン氏はフリード氏の『自己没入(アブゾープション)と演閲性(シアトリカリティ)ーディドロの時代における絵面と観者』(Absorptionand Theatricality; Painting and Beholder いる。くべきことに,フリードのディスクリプションは非様式的な方法によって表現されたイメージの変遷ー一秒lえばブーシェとシャルダンの相違ーーを叙述することに成功している。彼か分析の対象としているのは,様式論者か扱う二次元平面上の形態の相互作Jl]ではなく,むしろナラティヴの構造である。このフリードの方法は美術史学の方向の転換を示唆しているように私は思う。》(NormanBryson, Tradition and ブライソン氏は様式史として自已を定立してきた美術史学の限界を指摘し,それに代わるものとして絵圃の叙述的側面を問題化して歴史化を試みるフリード教授の著作を評価しているのであふる。また同じような視点から『美術史は終わりか?』を著したハンス・ベルティング教授も,従来の美術史学の方法の限界について述べ,これからの美術史の可能性を秘めた研究としてフリード教授の著作を挙げている。彼のを借りるならフリード教授の研究は《様式という概念が中心的な位慨を失った現代》においても《絵圃のイメージとしての性格》をあとづけることで《絵画作品の美的組成の構造》を《美術家とあいならんでいるように》記述することに成功しており,この方法は従米の美術史か見落としてきたアプローチであった。ブライソン氏やベルティング氏の言うように,フリード教授か18-19世紀のフランス絵圃の分析に用いている概念,例えば「自己没入(アブゾープション)」と演劇性(シアトリカリティ)」という概念は,従来の美術史概念と根本的に異なっている。一つにはこうした概念か様式論にも内容論にも属さない領域に根を持っていることが挙げられるだろう。さらに,今回のシンポジウムにおいて重要と思われるのは,彼は繰り返しこれか,作品分析一般に適用される従米の美術史における理論的な概念ではなく,-299-

元のページ  ../index.html#321

このブックを見る