いメスの先についた血の表現があまりにもく生々しく>表現されていることが理由であった。フリード教授はこの作品を出発点に,イーキンスの「ライティング」の行為に注目する。絵画作品の中にイーキンスの「書く」行為が描きこまれていると見るのである。『グロス教授の解剖学講義』においては,後景の書記あるいは講義を受けている生徒のメモの行為,そして何よりも主役のグロス教授のメスを取る手の行為か「書く」行為の現れと見るのである。この「ライティング」を鍵として,イーキンス自身の心理に働いていた様々な芸術的要因,芸術意志を明らかにしてゆく。例えば,カリグラファーであった父との関係,あるいはフロイト的な関係,また当時の高校のカリグラフィーの教育方法にまで考察は及んでいる。こうした考察の基礎となった「ライティング」という概念への注目は,従来のリアリズム絵画の分析方法からは考えられなかったものである。ただ単に目の前にあるものを捕いた,あるいは解剖学講義の臨場感を高めるために現実的な指標を描き込んだとのみ理解されてきたこの場面に,フリード教授はイーキンスの芸術的な意志を解読するのである。また「ライティング」という概念か,従米の美術史が扱ってきた様式論と内容論の隔たりを越えたものであることも注目すべきであろう。今回の討論会において藤井教授かフランスの哲学者であるジャック・デリダを引き合いに出して指摘したように,フリード教授の用いる概念は,作品に接した氏の直観から樽出された自由な発想のもとに,絵画を開かれたテクストとして読解してゆくところに特徴がある。さらにイーキンスの絵圃の考察は「ライティング」を出発、点として,作品内の水平的構造と垂直的構造へと進んでゆく。イーキンスの作品には絵画を閉じられた空間として設定する垂直的な構造,とくに遠近法の中に顕著に現れている「アブゾープティブ(没入的な)」な構造と,観者を引き付けずにはいない物質的な垂直的な構造か,相いれない要素であるにも関わらず併存しているのだとフリード教授は分析する。こうした発想もまた,絵画作品を統一的様式として前提化してきた美術史に問題を提起しているだろう。こうした考察によって明らかにされたのは,19世紀後半期フランスに渡って写実的な技法を身につけたイーキンスの作品の「物語性」の豊かさである。前衛対アカデミズムの図式のもとに語られる従来の「レアリスム絵画」の解釈の可能性は,フリード氏の方法に比べるなら,究めて狭められた範囲でしかないことは明らかである。絵画301-
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