鹿島美術研究 年報第9号
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図」をある画家に示して描かせたという記述があり,活所ともっとも深い関係にある山雪がその面家と考えられる。この記事は党永9年(1632)のことであり,『八種画譜』の将来か江戸時代初期であったことかこれによってわかり,従来の江戸中期舶載説を改めなければならないことになる。また,山雪は,絹本著色『長恨歌絵巻』二巻(アイルランド,チェスタビーテイ・ライブラリー蔵)を描いているが,その前にその稿本ともいえる紙本著色『長恨歌絵巻』一(1646) 3月に描いており,これは京狩野の絵手本と考えての制作と思われる。芸術性としては,稿本の方が優れている。息子の永納は,山雪が手本とした唐本をもとにして,『長恨歌図抄』二冊を延宝5年と同時期に面家に俵屋宗達かおり,彼は京都の豪商で1篇学者の角倉索庵に援助を受けて,万暦30年(1602)刊の『仙佛奇踪』を手本として水晟人物画を制作している。京狩野や宗達の唐本に対するこのような関心は,近抵初期の京都という粕神的風土を考える上で興味深いものがある。(1677)に翻刻している。--307-一十六図(芦屋市・個人蔵)を正保3

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