鹿島美術研究 年報第9号
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101章)と同じであることは,至近距離からの観察で確認できた。つまり,箔を置くとII ジョットとギベルティ1 ギベルティのジョット像箔を置いたようである。(しかし,箔の重なりあった継目は,調査した範囲では見出せなかった。)また,板に金箔押しをするとき(チェンニーニ,第131章)のような,ボーロと呼ばれる微細な赤い「との粉」を下地とした形跡はまったくなかった。光輪の金については,概してよく定着し,その輝きを保っているが,『最後の晩餐』『弟子たちの足を洗うキリスト』の各場面のキリスト以外の使徒たちの光輪,および,『最後の審判』で,十字架を持つ二人の天使の光輪は黒変している。この点も興味ある現象であるが,今回の調査目的から離れ,研究方法も化学分析によらなければならない組成学的な問題である。ただ,金箔にしろ,銀箔にしろ,金ニス錫箔にしろ,ジオットーがスクロヴェーニ礼拝堂で用いた箔置きの技法そのものは,チェンニーニの伝えるところ(第123章,第ころは,錐の先で輪郭線を引っ掻いておく点である。この技法についても実際に試みてみたが,イントーナコを引っ掻いた輪郭線の内側にワニスを塗り,箔を置いた上を綿などで押さえつけると,「錐でつけておいた跡が見えてきて」,必要な部分だけに箔は密着する。この引っ掻き作業のときに,あるいは<型紙>のようなものを使ったかもしれないという想像はできるが,これまでの調査ではまだ何の確証も得られてはいない。錐の鋭い引っ掻き跡からは,後世のカルトーネのような下絵を当てた上から引っ掻いたもの(incisione)でないことだけは確かである。もし,紙の上からであれば,引っ掻き跡は丸みをもった鈍いものになるからである。この点で考察の対象となるのは,とくに『ユダの接吻』と『傑刑』の場面における一群の兵士たちの兜(箔を置いた部分は一様に黒変している)であるが,箔置きでないところでも部分的に輪郭線の鋭い引っ掻き跡が見られることは,<下絵の転写法>という点で興味ある今後の課題である。(丹羽洋介,宮下孝晴)_ーギベルティのquasitutta la parte di sottoの解釈について一~「作品はそれ自体のうちにすっかりその意味を具えていて,まだその主題を知らぬ観客にすらそれを感じとらせるようなものでないといけない。パドヴァのジョットの壁画を見るとき,私は目の前にあるのがキリストの生涯のどの場面であるかを知ろうと-314-

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