鹿島美術研究 年報第9号
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気を配ったりはしないが,それが発散している感情はすぐに見てとることができる。」これはアンリ・マチス(彼は1907年と32年にバドヴァを訪れている)の言葉であるか,今,我々がスクロヴェニ礼拝堂壁画を見て受け取る印象も,まさにこのようなものであろう。マチスか,ジョットと同じように傑出したデッサン家であるとともに希有な装飾家であった事を思う時,今世紀の一画家によるジョット批評として聞き流すには余りにも重い靱きか,この言葉にはある。対象作品が描写芸術figurativeartの場合,主題についての記述を抜きにして十分な批評はあり得ない事,もちろんである。しかし,ジョットは,与えられた図像主題を自らの豊かな表現力に融合させ,知的な構成力とデッサンカによって人間的なドラマの核心へと見る者の目を引き込むので,結果として,我々はジョットの絵の主題内容について特別の関心を抱かずに,直ちにその芸術を理解できるのである。そして,ジョットのこのような絵の特質について語った芸術家か‘,ルネサンスの時代にもいた。彫刻家ロレンツォ・ギベルティである。ギベルティは,その晩年の著述『コンメンターリ』第二書の中で,ジョットとジョッテスキらについて作品本位に批評しているが,ジョット批評(ギベルティはパドヴアに実際に行っている)ではギベルティは謀黙なまでに図像主題についての記述を抑制するのに対して,ジョッテスキやアンプロジオ・ロレンツェッティらの批評ではその主題内容について饒舌に語る。確かに,これらの画家の作品にあっては,誰しも,絵の主題にまつわる細やかな袖写に目を留めないわけにはいかないであろう。これは,J.シニバルディ(1928)が指摘した事実であり,それによってギベルティは,ジョットと,ジョッテスキ及びアンブロージォらとの芸術傾向の違いを識別できたと推定される。筆者はこれを発展させて,ギベルティがその批評で頻繁に使用する形容詞dotto(「博識の」の寇)に済目し,この形容詞が絵の主題記述と併用されない批評事例(すなわちdottoの単独使用)は『コンメンターリ』ではジョットとマーゾ(・ディ・バンコ)の場合に限られる事を示して,シニバルディの説に新たな根拠を与え,ギベルティがジョットの絵の主題に対して言わば「無関心」であったのは,モリザーニ(1947) の言うようにこの画家に対するギベルティの無理解を意味するのではなく,右に見たようなジョットの芸術の成り立ちをギベルティが的確に把握していたことの表れにほかならない事を論証した(『日伊文化研究』第26号所収の拙稿「ロレンツォ・ギベルティの『コンメンターリ』おけるジョット像」)。-315

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