鹿島美術研究 年報第9号
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di sottoは「聖フランチェスコ絵伝」をさすと考える第一説の論者らの多くも,様式判3 ギベルティの真寇かある事を即座に否定はしないものの,解釈の最終的な決め手はあくまでも様式判断にあると主張し,あえて『コンメンターリ』の史料的価値に疑いを投げかけるのである。尊かれる結論は〈ノン・ジョット派〉のそれと正反対ではあれ,quasitutta la parte 断をギベルティのテクストの解釈に優先させる点では〈ノン・ジョット派〉とテクストの読み方において同エ異rlilであると言わねばならないか,まずこのテクストを再検討し,その上で対象作品との照合を試みようとする動きは〈ジョット派〉の方から出てきた。マザーとマーリがこれを代表する。マザーは,ギベルティかよく識別しえたシモーネ・マルティーニやジョッテスキの壁画も「聖フランチェスコ絵伝」(下院のそれ)も存在する下院の壁圃群について,ギベルティかquasituttaと書くことはあり得ず,上院の「聖フランチェスコ絵伝」全28場面の「殆ど全て」か,この一句の宜意であって,ギベルティは,今日<サンタ・チェチリアの他i家〉に帰される3■ 4場面と残る大部分の場面との違いを識別し得たと日--)。この問題に,まずテクストのしかるべき解釈,次いで対象作品との照合というオーソドックスなアプローチを試みたのは前後にマザー1人のみであって,その見解が今日まで正当に継7ドされてきたとは言い難;い。マーリは,ギベルティの問題の一句にあるparteは,失われた『コンメンターリ』の原本ではpareteすなわち「壁」ではなかったかと推定して第一説に有利な根拠を与えようとしたか,マザーの研究成果に立つならば,誤写のあり得る現存する唯一の写本によってもなお,問題の一句を適切に解釈することは・ット分に可能である。『コンメンターリ』はそれを許す希有な文献である。なお,ギベルティより以前に,アッシジの聖フランチェスコ聖堂におけるジョットの制作について言及した唯一の史料としてリッコバルド・フェラレーゼの『年代記』(1312頃〜1318頃)か知られるが,ギベルティがこれを参照した形跡はないから,本稿のテーマに関する限り,従前のジョット関係史料とは別個に『コンメンターリ』を読む事は許されよう。(この項については『金沢美術工芸大学紀要』第35号所収の拙稿「ギベルティの“quasitutta la pa rte di sotto"はジョットのどの絵をさすか(一)」を参照されたい)マザーよりもう一歩先に進もう。彼は,下院の「聖フランチェスコ絵伝」やシモー-317-

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