鹿島美術研究 年報第9号
340/428

Chiesaの前に不定冠詞ではなく定冠詞laが添えられていると言う事実に加えて,『コネ・マルティーニの壁画やジョッテスキの壁画を識別できたギベルティが下院の壁画群をさしてquasituttaと書くことはあり得ないと述べた。確かに,最初に述べたようにギベルティは,ジョットと,マーゾ・ディ・バンコ以外のジョッテスキ及びロレンツェッティ兄弟との違いをも的確に識別できだ爛眼の批評家であった。この事実を前提にして『コンメンターリ』を再読するなら,マザーの判断を補強する新たな根拠が得られよう。ギベルティはステーファノ(・フィオレンティーノ)批評の中で「アッシジの教会に,彼によって着手された,完璧にして大いなる技をもってつくられた『栄光』Gloriaの一図があり,もしこれが完成されていたならば,才能にたけたあらゆる人を驚嘆させた事であろう。」と記している。この「栄光」の図に同定される作品は現在知られていない,と言うより失われたと言うべきであろう。ギベルティはこの絵の所在について「アッシジの教会に」nellachiesa d'Asciesiと述べるのみである。しかし,ステーファノに関する記述はジョットの弟子たちの筆頭に,言い換えればジョット批評のすぐ後に置かれているのであるから,アッシジの聖フランチェスコ聖堂におけるジョットの制作について先に触れたばかりのギベルティは,ステーファノの絵のあるこの教会の名称を自明の事として省略したのではなかったか。これは単なる憶測ではない。ンメンターリ』第二書においては,批評の対象となった絵の所在を示すのに,漠然と都市名を挙げる場合は別として,教会堂の名称を入れない事例は,ほかに一例も見出せないからである。従って,『コンメンターリ』のテクストからステーファノの失われた絵は,一応,聖フランチェスコ聖堂にあったと推定されるが,ギベルティより1世紀後にヴァザーリ(『美術家伝』第二版)は,「(ステーファノ・フィオレンティーノは)次いでアッシジに行き,聖フランチェスコ聖堂下院の内陣のニッチに,つまりコーロに,フレスコによって『天上の栄光の物語』Storiadella Gloria celesteの制作に着手した。彼はこの絵を完成しなかったものの,彼の制作ぶりにはこれ以上望み得ないほどの入念さが認められる。」と記している。この絵を実際に見てギベルティの批評を追認したヴァザーリは,その所在をこの教会堂下院の内陣のアプシスとしているのである(ガブリエリ1958はこの「栄光」の図の再構成を試みている)。さて,この下院を装飾する全壁画群から,1200年代の「聖フランチェスコ絵伝」(下院身廊両壁)とシモーネ・マルティーニの壁画(サン・マルティーノ礼拝堂)のほか-318-

元のページ  ../index.html#340

このブックを見る