鹿島美術研究 年報第9号
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④ 秋田蘭画の年代設定について-1780)にその主要な作品が制作された,一群の洋風画の呼称である。その名のとおりに12月に江戸へ出立した。以後彼は一度安永6年12月に帰国して翌7年10月に藩主佐研究者:東京国立近代美術館研究員児島近年,秋田蘭画をめぐる二つの大きな成果が見られた。武塙林太郎氏による新たな画集『秋田蘭画』の刊行と,1990年の秋田市立美術館による大規模な秋田蘭画の展覧会の開催である。秋田岡画の主要作品を網羅する大部な画集の刊行は,1974年以来のことであったため,新たに発見された絵画や資料が多数盛り込まれている。そして展覧会ではおそら〈編集上の都合などによって画集に掲載されなかった周辺的な作品も含めて,秋田蘭画とそれに類する作品が一堂に並べられた。質量共に非常に画期的な展示であり,今同の私の調査の上でも,一度に数多くの作品を網羅的に眼にする機会を得られたことは最大の収穫であった。秋田蘭画は,知られるように,江戸の文化が最盛期を迎えつつある安永年間(1772秋田藩の君臣の努力によって形成された作画形式であるが,主要な活動の場は江戸であり,享保の改革以来の幕府の洋学奨励策によって江戸で開花した西洋文化への憧憬が生み出したものであった。その背景には,当時実権を握っていた田沼意次の積極的な経済政策や,次々と外国から持ち込まれた珍品奇物の類,珍しい動植物への人々の旺盛な好奇心,といった新たな時代の活気が満ちていた。安永2年の7月,秋田の鉱山の改良策を講ずるために平賀源内が秋田藩に招かれ,その折り,藩士であった小田野直武と行動を共にすることになった。直武は幼少より絵画に優れていたが,源内の示した西洋画法に興味を持つに至ったらしく,江戸に帰った源内の後を追うかのよう竹義敦の供として江戸に上るまでずっと江戸に滞在した。そして安永8年12月に突然遠慮を申し付けられて国元に戻り翌年5月に没した。画技の上ではこの小田野直武が秋田蘭画の中心人物であった。彼が源内の元に頻繁に出入りして西洋銅版画などを手本に見よう見真似で洋風の遠近法や陰影法を用いた絵画を描くようになり,まずもともと仕えていた主人であった角館城代の佐竹義的にその技法を伝え,やがてこの洋風画に強い興味を示した藩主佐竹義敦にも伝授し,義敦の御小姓並に召し抱えられ,密接な関係を持った。秋田蘭画の制作は,中心人物直武の急死によって一応の終焉を迎え,彼らの名も忘れられていった。しかし,これまでの先学の研究によって明らかに癒(平成2年度助成)-320-

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