鹿島美術研究 年報第9号
343/428

されてきたように,彼らの洋風画の試みは司馬江漢に受け継がれ,やがて明治の洋画の先駆者高橋由ーに繋っていった。秋田蘭画の主要な作画活動は,前述のように非常に短期間であったため,様式の変遷を追いにくい。かつ基準作となるべき年記のある作品がほとんど皆無であるため,個々の作品の制作年代を推定するのは困難を極める。直武が洋風画修業に着手した最初の成果である『解体新書』の付図の仕事が完了し刊行されたのが安永3年8月であったことと,直武の洋風画の様式かほぼ完成したとみられる頃に曙山が記した画論「画法綱領」「画図理解」「丹青部」の末尾に安永7年9月の年記かあることと,はっきりした年記はそれらのみが明かである。後は現在知ることのできた絵画作品から技法の展開を辿り,直武,義妬,曙山の三者の関係を軸に,おおまかな流れを想像する以外に現在のところ方法はないだろう。この作業は未だ途上にあり,今回ここに記すのは,あくまで推測にすぎない。新査料の発見によって修正されねばならない点が出てくることは避けられないながら,一応の中間報告のために概略を以下に述べたい。まず中心人物である直武の行動を追ってみよう。安永2年の砕れに江戸に上った彼は,翌8月に刊行された『解体新書』の附図を描いたのであるから,安永3年の春頃,銅版画による人体解剖図の模写・に集中していたことになる。安永4年の7月5日,直武は江戸に上った義船を千住に出迎え,8月11日に見送っている。このI廿],直武は絵画を愛好した義射の絵の相手を勤めた。この年の12月義射は横手城代に「直子有画掛物玉盤画」を贈っている。直武の作品の中には「直子有画」という落款のものがみられ,「玉盤」とは菊の花のことであるから,直武の猫いた菊花図一幅を贈ったことになる。これが洋風であったかどうかは不明である。ちなみに直武のく秋菊図>(前述の画集『秋田蘭圃』の図版22ー以下に述べる作品に付した番号は全て同画集のものである)は「直子有画」の落款を持つ掛け幅である。直武は安永6年12月に帰国し,直ちに義妬に召されて絵の相手を勤めている。しかし彼は安永7年4月10日には曙山のいる久保田に引っ越しを仰せつかっているため,義身りが直武を召して作画に熱中したのは,江戸滞在の後は,3ヶ月余りの短い期間にすぎない。9月には直武は曙山の御小姓並の取りたてを受け,専ら曙山の相手を勤めることになった。城代の家臣が藩主の近くに仕えることになったので,直武と義妬の関係は以後疎遠にならざるをえなかっただろう。義的は秋田蘭画の作家の中でも長命で,生涯に渡って絵画を愛し制作を続けた。しかし直武の作品の非常に近似した繊細で細密な抽写のみられる作品は数点で,以後-321-

元のページ  ../index.html#343

このブックを見る