鹿島美術研究 年報第9号
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は殿様らしい應揚な筆使いになり,のびのびと描いている。義身りが最も直武に近い筆使いを見せた作品は,<岩に百合図>(87)や<松に辛夷図I),(41)のような作品であろう。特に前者の,特異な形の岩から野の花が生え,背景に水面が広がり遠くに汀が描かれる構図は,直武の前述の<秋菊図>と極めて似ており,両者の制作が密接な関連を持っていたことをうかがわせる。そしてまた,義射が同エ異曲の作品をより簡略化された筆致で数多く描いている事実から,このピークとも言える時期の後,直武が義射の元を去り,義射が新たな作画のきっかけを失ったことが想像される。さらに,<岩に百合図>の完成度から見て,江戸で直武が義妬の相手を勤めて以来,義的は直武が秋田に帰る以前から洋風表現を手懸け始めた可能性も有り得るだろう。したがって,安まず直武は銅版画を真似ることによって細い墨線を駆使して立体的な表現を行なうことを学んだであろう。そして大小遠近法や大気遠近法も,そうした手本などを通して学んだであろう。この時期の作画のごく早い例は,例えば<獅子図>(32),く風景図>(34)が挙げられよう。どちらも舶載銅版画を手本に大きな改変なく写している。また,切れ切れの墨線の用い方がまだぎこちなく,線もぼてぼてとして鋭さに欠けている。これらに比して山口泰弘氏が安永6年頃と推測した<富嶽図I),(35)では,はるかに細い短い線を無数に描きこんで樹木や水面の反射を表わしている。前景,中景,後景と折り重なるように連なる木々は,遠くなるほど薄く見えるように工夫し,光りの明暗の対比もはっきりとして画面に統一感を与えている。実際の風景に洋風の表現を応用したことも,これまでに指摘されてきたように重要である。銅版画風の表現を画面全体に及ぼしてゆく,という方向性をこの時期の直武の進んでいった一つの方向とみるならば,大きさも小さく題材が武人の絵画としては不適切なく恵比寿,大黒図>(31)もこの方向性の中で江戸で制作されたと考えられるだろう。また一方で,先のく風景図>(34)を背景に取り込んで前景に大きく南禎派風の岩と花を揺いた<岩に牡丹図II),(21)も筆使いのぎこちなさから初期の作品と考えられる。そしてその形式が発展した後の作品がく岩に牡丹図I),(20)といったものであろう。義射作品にこのスタイルが多く,また<蓮花図>を真似た曙山の<紅蓮図>(11)があることから,このタイプの作品は,直武か秋田に帰国してから曙山の元に移った頃ーこれを中期としよう一まで盛んに制作されたと思われる。この三者の関わりが交錯した時期に新たに出現したタイプの作品は,画面を大きな永3年から安永6年までの間は直武の初期一洋風画修業期にあたると言えよう。-322-

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