鹿島美術研究 年報第9号
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木の幹が横切り,そこに別の花鳥のモチーフが加えられたものである。このタイプの作品で最も有名なものは曙山のく松に唐鳥図>(1)であるか‘,これまで直武の作品は知られていなかった。だが数年前に調査の機会を得た某家の直武作品にく松に椿図>ともいうべき縦長の一幅があり,これは今橋理子氏の論文「小田野直武写生帖の意味」武画」とあり,筆使いは<富巌図I>と近いもので,真筆であることは間違いないと思われる。松の幹は漠圃風であるか,義船の<紅梅椿図>(45)や曙山のく老松図>(4),く松に椿に文烏図>(6)といった作品との関連をうかがわせ,<松に唐烏図>のように完成度の高い大作が生れる前の試行錯誤を思わせる。直武の初期から中期までの間に形成されたもう一つのスタイルは,中国風の人物を用いたものである。先に挙げた銅版圃を写した初期のく風景枢]),(34)を背景に用いた無款の<唐美人図>(71)か,やはり筆使いから早い時期のものとみられる。<児窟愛犬図>(30)もまたあまり遅い時期のものではないだろう。これらの奇妙なI巾国風の人物表現は,当時中国で盛んに制作されていたヨーロッパヘの輸出用の様々な美術二[芸品にみられる洋風表現と共辿点を持っており,筆者かこれまでにも別の機会に述べてきたように,それらの関係もまた重要である。直武が曙山と密接な関係を持って制作した安永7年から8年は,彼の早すぎた晩年であり,円熟期と呼べるだろう。この時期,彼は藩主のもとで制作したため,主題もまたそうした立場にふさわしいものであったはずである。あるいは島律家に贈ったものではなかったかと推測されてきた<唐太宗,花島山水図>(28)はその代表的な例である。また<應図I),(26),<應図II),(27),<膀図>(25)はいずれも筆致の円熟味,圃面の構成の緊密さから直武の技術の頂点を示すものであるが,同時に堂々たる作品であり,いわゆる「圃品」の高さを感じさせる。これらの作品では,銅版圃風の細い墨線が圃面全体におおうことはなくなり,花島には濃彩が用いられているという大きな特徴がみられる。一方この頃曙山もまた円熟期にあったと思われ,<竹に文烏図>(8)のような完成度の高い作品が制作されたであろう。いずれも濃彩の花烏が主体となった作品である。藩主に仕える者としての立場を考えると,前述の直武作品の傾向は,あるいは曙山の滋向を反映していたのかもしれない。また円熟期の作品のもう一つの特徴は,<品川帰帆図>(36)や<日本風景図>(29)のように,実景にをもとに遠近法をよく消化して空間に広がりを持たせた風景作品が生れたことである。(1991年『美術史』所収)の註に小さい挿図で紹介されているものである。落款は「直-323-

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