以上紙数の制約からはなはだ乱暴な推論を行なってしまったが,もちろんこれらの考察は改めて実証的に検討しなおさねばならず,それは今後の課題である。しかしながら,このような作業を恐れずに行なおうとしたのは,次のような理由からである。秋田蘭画についての研究は,昭和初期に平福百穂が『日本洋画曙光』としてまとめられたのが最初であるか,秋田蘭画の存在に初めて注意が向けられたのは明治の中頃からで,平福百穂が『美術新報』に「江漢以前の洋画家<小田野直武>」という記事を書いたのは明治36年であり,荻津勝孝の孫の助吉に取材した「平賀源内と油絵」が『絵画叢誌』に載ったのは明治39年のことであった。前者は当時の最新の西洋美術情報誌で,当時のサロンの画家たちの代表作の写真が扉を飾ることがしばしばであった。また後者はアールヌーボー風のイラストで飾られ,この号の紙面を共に飾ったのは山方香峰による「国民性を脱却したる絵画(西洋画の日本化を論す)」という文章で,日本人の描いた油絵は日本画なのか,はたして日本人が油絵を描く上で国民性を発揮するにはどうするべきか,といった問題が延々と述べられている。ここで詳しく論じる余裕がないが,秋田蘭画の評価は近年洋風の成立時の状況と切り離せない形で始まったことは否めない。このこと自体興味深い問題をはらんでいるが,しかし江戸の秋田蘭画の本来の姿を取り戻すには,個々の画人の「顔」を想像し,彼らが本当はどんな作品を描こうとしたのかを作品に立ち帰って考えるという最も基本的な作業が必要である。容易に前進することのできない問題ながら,今後も文献資料の探索を含めて続けてゆきたいと思う。末尾なから今回ご援助を賜わった鹿島美術財団の皆様に心からお礼を申しあげたい。-324-
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