なり,またそのことは南蛮美術の研究学徒の義務でもあると考える。従って上記の報告をもって貰財団への研究助成に対する御報告としたい。ゴアはインド亜大陸の西岸の中ほど(北緯15度33分,東経73度15分),ガッツ山脈とアラビア海に挟まれた約3,800kmのエリアをいうが,南蛮美術と関わりのあるオールド・ゴアはマンドビ川とズワーリ川に挟まれた長辺15キロメートルの三角形の島状の中に位置する。地名はマハーバーラタにも見えるゴマンタ(Gomanta)からきているといい,ギリシャのプトレマイオスがコウバ(Kouba)とll乎んだ地がこの地にあたるのではないかという。ちなみにアラビア人はこの地をシンダブール(Sindabur)と呼んでいたようである。マウリヤ王朝の頃から歴史に登場するこの地は14世紀にはヒンドゥー勢力であるヴイジャヤナガル王国の一部となっており,この王国はゴアからアラビア馬を輸入することによって騎兵隊の強化に努めていた。1469年にはムハンマドIIIの将軍であったマフムート・ガーワンによって征服されデカン回教国バフマーン朝の支配下に入るが,て繁栄を謳歌していた。セウタの攻略以来,アフリカの南下を続けていたポルトガルは1488年喜望峰まで達すると1489年にはヴァスコ・ダ・ガマがアラビア人のパイロットを使ってアラビア海を一気に横断,カリカットに到達した。交易において利害がするどく対立することになったポルトガルとアラビアはアラビア海の覇櫂を求めて争う中で,ポルトガルから第二代インド総督に任命されたアルブケルケはゴアに着目,1510年にこの地を奪取し,アラビア海の制海権確立に大きな橋頭堡を策いた。ポルトガル人はゴア内にあるヒンドゥー遣跡を破壊し,交易からあがる富をこのゴアの地に次々と建てる教会やその装飾にも注ぎ込んだ。そしてポルトガルはその交易線や支配をマラッカ,モルッカ諸島へと伸ばしていく中で,このゴアはポルトガルの東方経営のハブ,すなわちさまざまな航路の結節点となっていく。この地に最初に到着したキリスト教宣教師は1517年のフランシスコ派であったが,その後もドミニク派,アウグスチン会,イエズス会などさまざまな会派が当地に来着,次々に教会や修道院を建て,ゴアは東アジアでのキリスト教布教の中心地になっていった。1533年1月の宗教会議(1534年11月3日付け教皇勅書以降とも)によりゴアは司教管区となり,1 ゴア1488年バフマーン朝が途絶えるとビジャプール王国の一部となり,その第二の都とし-326-
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