鹿島美術研究 年報第9号
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望峰から東は中国までを管轄として1538年最初の司教が赴任する。そしてさらにゴアの重要性に鑑み1558年大司教管区に昇格し,文字どおりゴアは「東のローマ」として,キリスト教布教の一大中心地となっていったのである。ゴアを中心としたキリスト教布教活動中,中でも特記すべきは聖人にも列聖された,イエズス会の設立者の一人フランシスコ・シャビエ(ザビエル)であろう。彼は高潔な人格と該博な知識を持ち,当地や周辺,マラッカ,そして日本へも献身的な布教を行ったことで名高い。今日彼の遺骸が眠っているところも,旧ゴア市街に存する彼を記念した教会の中である。灰岩)の産地であり,この石のきめ肌は細かくあたかも大理石のようであり,ここの石か‘ゴアの重要な教会や宮殿に使用されることになる。最盛期には約20万人から30万人,さらに当地に流れ込む水夫,商人,旅行者などで膨れ上かったこの地は,人口の面でも賑わいの面でもリスボンを上回り,「黄金のゴア」とも,ゴアを見たものはリスボンを見る必要がないともいわれたという。ゴア大司教フォンセッカの従者としてゴアに入り,1583年から1588年まで当地に滞在したリンスホーテンは,のちに東方の事情を詳しく記述した「Itinerario(東方案内記)」において「この町は,住宅も街路もポルトガル風に立派に建設されている」,「リスボンと同様に,あらゆる種類の修道院や教会がある」①と記述しているが(彼自身オランダ人であることからくるポルトガルヘの偏見からか,ゴアの世情やゴアのポルトガル人に厳しい目を向けている),リンスホーテンがゴアを去ってより約20年の後,すなわちポルトガルが貿易からあがる利益を建築や数会に惜しげも無くゴアに投入していた頃,1608年から1610年までゴアを中心にインドに滞在したフランス人ピラールは「私が驚嘆するのは,そのような短期間に,ヨーロッパ風の立派な建物,教会,修道院,宮殿,その他の建築物をつくったことである。しかもまた,それらは整然と秋序だっており,規則正しく,腎察があり,彼らが獲得した櫂力も総てがリスボンと同様に正しく維持されている。実に開多しい人々か,日々,海路と陸路から,種々の用務で出入するのは,まさに壮観である。…(中略)…インド(各地の)世にも珍しいものをこの目で見たうえで,インド諸国の中でゴア市が最も著名であり,交通の(要衝)として知られていることを確信できるのは,このゴアに滞在した者だけが為し得ることである。」逗]と記している。1534年ポルトガルはボンベイの近くバセインを攻略した。ここはライムストーン(石327-

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