鹿島美術研究 年報第9号
350/428

1637年から1644年にいたってはオランダ艦隊によりゴアの生死を握るマンドヴィ河口1780年にはかつての繁栄を極めたゴアも「街路に人家なく,多くの地区は椰子樹の2 残存する建築物またイエズス会が企画した天正遣欧4少年使節もこのゴアに当然立ち寄り,先のリンスホーテンもイエズス会への批判を含めて書き留めるところとなっていることは斯界の研究者にとってはよく知られている事柄である。しかしながら16世紀末のオランダ,イギリスのアジア進出によって次世紀以降,ポルトガルの東アジアでの優位が急速に後退したことは,ゴアの活力を次第に削いでいくことになる。海上でしばしばオランダ船やイギリス船に掠奪や撃沈を受けた上に,を封鎖されてしまう。また1639年には収益のあがる日本貿易を徳川幕府により完全に断ち切られ,さらに1641年には香料貿易や極東貿易の重要拠点マラッカまでオランダに奪われてしまうのである。またゴアを1543年以降間歌的に襲った疫病(コレラなど)がゴアの衰退に拍車をかけた。17世紀の末になると人々はこのゴアを見捨てはじめ,ゴア市外の西約10キロ離れたパンジム(パナジともいう)に移っていく。ポルトガル本国はゴア旧市街の死守を訓令するが,もはや自分の命をかけてまで旧市街を誰も死守しようとはしないし,旧市街は既にその価値を失っていたというべきである。栽培地となれり。……(中略)……現存するは豪華なる教会,修道院,官邸,病院の諸建築と,あるものは平屋なるも多くは二階建なる古き人家,几七軒とみなり。修道会員以外の住民は3008名を数う。」(1780年のゴア総督ドン・フレデリコ・ギリエルモ・デ・ソウのポルトガルヘの報告戸という今日とあまり変らない有様になっていた。そしてかろうじてゴアとその周辺を維持していたポルトガルは,第2次世界大戦のあと彰群としておこる植民地独立運動の波に勝てず,ついに1961年インド政府の実力行使の前にあっけなく陥落してその栄光の歴史を閉じる。ゴアはマカオやマラッカを見てきた目には実に広大な場所に映る。他が要塞都市であるのに対し,ゴアはさすがに大航海時代を切り開き,16世紀の覇者であったポルトガルの東方経営中心地であったことを実感させるに相応しい。島内やその周辺のいたるところに残る教会,そして辻々に建てられている十字架はイベリア半島を想起させる一方,1961年にポルトガルの支配から離れインド政府の管轄下に入ったとはいえ,当地においてはキリスト教が優位を保っていることを示しているものと思われ,-328-

元のページ  ../index.html#350

このブックを見る