鹿島美術研究 年報第9号
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当地の教会関係者の話によればゴアにおいては住民の半分がキリスト教信者であるという。地図Rのようにほぼ3角形の西に現在のゴアの中心地パナジがあり,そこからマンドヴィ河を約10キロ遡ったところがかつてポルトガルが設営した旧ゴア市街である。今や建物がしだいに椰子樹の中に呑み込まれようとしているが,以下に紹介するほとんどの教会や修道院はまだ立派に存在し,活動もしている。3角形の右隅にあたるズワーリ河に面したあたりはビジャープール王国時代に栄えた旧旧ゴアともいうべき(GoaVelha)ところで,そのかつて宮殿の建っていた丘陵の頂上に今ピラー修道院とその付属学校,教会が建っている。では旧ゴアには今どのような建物か残っているのであろうか。①(地図B参照)かつてマンドヴィ河から遡ってきた船が錨をいれたところは近辺は現在小さなフェリーの発着場となっており,当時を偲ぶよすがもない。今はすっかり細くなった道の横には低い当時の石垣か残っており,その先にインド副王門(TheViceroy's Arch) かある。現在の立っている1"]は1954年の復元を1971年に修復したものであり,しかも頂上に据え付けられていたという聖カタリーナのブロンズ胸像を省いたものであって正確なものではない。元は総督フランシスコ・ダ・ガマ(在位1597-1600)が机父ヴアスコ・ダ・ガマを記念してつくったものである。この副王門から伸びる道をかつてはディレイタとII乎び,本通りのようなものであったらしい。この道に入るとまず目に飛込んでくるのが大司教座聖堂であり,隣接するフランシスコ会聖堂,向いあうように立つ赤い石のファザードが印象的なボム・ジェズー,大司教座聖堂とディレイタ通りをはさんで対象的な位憤に立つカエターノ修道院である。オールド・ゴア最大の聖党で幅55.16m,奥行76.2m,ファサードの高さは35.36mある。1562年ポルトガル政府と王室費により建設かはじまり,主要音li(身廊)は1619年に完成,祭坦の据え付け終了は1652年のことであった。バセインから切出した石灰岩を使用。トスカナ様式とゴシック様式を併用。完成時塔は左右にそれぞれあったか,北側の塔は1776年崩壊して今は無い。南側の塔には鐘か取り付けられており,その音色は黄金の鐘と呼ばれるほど美しいという。中央に身廊が通り,2本の側廊,そして拠廊かあり,側廊に沿って8つのチャペルがある。拠廊にはそれぞれ3つ,計6つの祭製(Altar)がある。主祭駁(写真2)はアルブケルケがゴアを陥落させた日(1510年11月25日)が聖カ1. The See Cathedral(写真1)-329

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