る時代であったといえよう。さらにまた,1875年にベルギーから直接赴いたイタリアでのミケランジェロ作品に対する彼の本格的理解が,このロダン様式確立の決定的要因となったことも重要である。このベルギー時代について,論者の様々な調査と考察のなかから,今回はロダン彫刻における<彫刻の人体構成と建築構造の関連〉の問題を論じ,ロダン彫刻の本質のを明らかにできればと考える。そこでは,彼が従事した建築装飾のモティーフと彼のミケランジェロ解釈が決定的要因として挙げられ,ここで方向付けられた構成法こそがロダン彫刻の未来を決定したと考えたい。ここで論者は先ず,パリにおいてもブリュッセルにおいても当時の都市建築の隆盛に伴なって流行し,ロダン自身も手を染めた建築装飾モティーフであるアトラント(男性人像柱)とカリアティード(女人像柱)がロダン彫刻の人体構成の枠組みを準備する下地となったと想定する。さらにそれがロダンにとっては,単に要請される伝統的な建築構造の部分や,建築装飾上好まれたモティーフという滋味を越えて,彼の追究する自立した人体構成の枠組みとなるにあたって,ロダンのミケランジェロ理解がその知的裏付けと骨組みとなる。こうしてロダンは,その極めてロマン主義的な思想を体現する人体彫刻の姿勢と構成,つまり,上からの重みを支えて耐えると同時に,うずくまるように内面に向かう姿勢,すなわち杜会や運命に対峠する内面性の表現を獲得したことを指摘したい。彫刻は,それが従属する建築によってく外から〉要請された形式から,形式としても意味としてもよりく内在化〉し,自立的構成と内面性を獲得したと考えたい。このことは,ロマン主義という思潮が要請したのは勿論だが,それを実在空間に形象化するには,こうした先行する<外在的〉形式の翻案がその軌道としてあったと考えたい。後年ではあるが,実際ロダンは,ミケランジェロ彫刻の本質を解説する際に,建築の一要素である<持送り〉が援用しているし,人体構造とゴティック建築く剖形〉,<持送り〉の法則の同一性にも言及している。さらにロダンは,建築の部分,とりわけ剖形と持送り部分のスケッチを多数残してもいる。これらは,ロダンの手によるとされる数体のアトラントとカリアティード,とりわけくアンスバック大通りのアトラントとカリアティード>(1875-76年)にその展開が見られるし,<J.-F.ロース市長記念碑>(1875-76年)の4体の寓意像のうちの3体(商業,工業,海運)にも現われる。これにく諸芸術を象徴する男のトルソ>(1875 _ 19
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