-76年)を加えることもできよう。これらは柱を背にして梁を負う構造の展開と考えら② 室町時代やまと絵扇面についての一考察れる。この構造はく青銅時代>には直接には見られないものの,装飾工芸品くタイタンの壺>(1870年代後半)の4体の男性像を経て後の<考える人>(1880年)やくアダム>(1880年),<イヴ>(1881年)を初めとする,彼の代表的作品に数多く見られることになる。こうした展開が,ロダンのベルギー時代をこそ舞台にして準備されたと考えたい。もちろんこうした姿勢ないし構成は,ロダンの彫刻の全領域を覆うものであるとするのは極論であろうが,それでも,ロマン主義的な精神性の形象化,とりわけ,苦悩や絶望,不安といった悲観的なテーマをもった彼の作品は枚挙に暇もないし,それがこうした作品の基本的構成法であると言ってよいと考える。ロダンは一日にしてロダンになったわけではないのは勿論である。ロダン彫刻を準備した様々な要素のなかから,彼の修業時代の建築装飾に着目することによって,ロダン彫刻の本質理解の一助となることを希望するものである。ー和歌との関係を中心に一報告者:大阪大学文学部助手片桐弥生概要:室町時代の公家日記や和歌集,五山僧の詩文集などを一覧すると,当時いかに大量の扇が制作され,使用されていたかが窺える。近年新出の相続く一連の扇絵遺品は,これらの実態の一端を教えてくれよう。今回の報告では特にこれらの扇絵が和歌とともにいかに鑑賞されていたかを検討し,平安時代において密接な関わりをもって発展してきた和歌と絵画の関係が,中世以降いかに転換し,その後継承されたかを考える序としたい。当時の扇絵と和歌との関係はおおよそ次の三種類に分類できる。ー、扇絵を見た新たに和歌を詠み,賛とする場合二、扇絵の賛として画面中に古歌を書き込んだり,色紙に書いて添える場合三、特定の古歌の歌意を絵画化する場合和歌集などに見られる扇絵に添えられた和歌賛の諸例は一にあたろう。この場合扇絵中に描かれる景物を何らかの形で詠み込んでいるのは言うまでもない。一方,能書で知られる公家の日記,例えば三条西実隆の『実隆公記』には,扇に和-20 -
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