歌を書くよう諸方から所望されたという記述が散見されるが,これらに書写された和歌は実隆自身の詠歌よりは,古今,新古今などに代表される勅撰集に含まれる著名な古歌である場合が多かったようである。この場合,和歌を所望された扇には,勿論ある特定の和歌を想定した絵が描かれていたわけではなかった。しかし,古来の季節の景物,例えば春の梅,謬夏の卯の花,時鳥,秋の紅葉,薄といったものを抽<扇絵は,どのような和歌とも組合せ,鑑賞することが可能であったろう。また,特定の古歌の歌意を絵画化する扇絵,当時の言葉で「歌の心の絵」と呼ばれるジャンルも存在したと考えられる。この場合,制作者から和歌に詳しい公家などに「絵様」を求めることもしばしばあったらしい。これらのうちの一部は「佐野の渡図」や「勿来の関図」といった画題として定着し,近世に継承された。以上は概観であるか,絵画と和歌との交流には既に新しい文芸を生み出す母胎の役目はあまりなかったかもしれない。しかしながら,いまだそれらの古歌の世界は豊かであり,人々は扇絵を見つつ,古歌の世界に遊んでいたのではなかろうか。③ 武元直筆赤壁図巻について報告者,・東京大学東洋文化研究所助教授小川裕充概要:蘇拭「赤壁賦」を絵画化したこの画巻は,南宋と中国を二分し,中原を版図に納めた金の,北宋文化の正統を承け継ぐとする自負を体現する点で,蘇拭に始まる北宋文人黒戯の正統に列なる王庭笥「幽竹枯株図巻」(籐井有隣館)と双璧をなす。また,金一代を代表する文人である趙采文の詞や,中国文学史に屹立する詩人である元好問の現在は失われた践「題閑閑書赤壁賦後」によって,金・1仕宗朝に活躍した在野の文人画家である武元直(?-1191以前)の現在唯一の作品であることが判明する,金代絵画の基準作例をもなす画巻である。ただ,本図には,両宋山水画の範疇では必ずしも理解できない造形語法上の混交が認められる。例えば,前中景では,李唐風の楔形の崖が,後景では,輩源風のなだらかな山が共存しつつ,後景の遠山では,菫源・巨然の披麻披系の跛法か,中前景の主山では,李唐の斧勢跛系のそれが混用されている。それを最も端的に示すのは,中後景に聾え立つ細長い峯である。葦源の伝称作品には,このような表現はない。むしろ,巨然の「箇翼腺蘭亭図」等に見い出せる。しかし,巨然のそれには,遠山としての処-21
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